book

□逆巻家
34ページ/34ページ


「名無し!」


ある日の午後、奥様が大事にしている花壇に水をやっていると、坊っちゃんがそう言って飛びついて来た。


思わず手に持っていたジョウロを落としそうになるが、なんとか体制を整える。


「坊っちゃん、どうなされたのですか?」


「うん、あのね…」


その幼い少年は私の耳元に口を寄せると、内緒話をするように小さな声でお願い事をしてきた。


どうやら坊っちゃんには最近、お友達ができたらしい。


屋敷の中でお姿を見掛けないと思っていたが、それは喜ばしいことだ。


そしてお願いというのは、その友達と一緒に食べるお菓子を焼いて欲しいということだった。


「だって名無しのマドレーヌ、美味しいんだもん」


早く早く、と私の手を引く坊っちゃんに連れられて私はキッチンへと入っていった。


こんなに楽しそうな坊ちゃんを見るのは久々で、マドレーヌ以外にも作り込んでしまったのだが


持っていくものが増えたと言って喜んでいるその少年の笑顔を見ると、私もつい笑ってしまうのだった。







それからしばらく経った日の事だ。


お屋敷の中からぼっーと外を眺めている坊ちゃんを見かけたのだ。


「シュウ坊っちゃん?どうかされたのですか?」


いつもはキラキラと輝いている筈の彼の目は曇っていて、悲しそうに俯いていた。


奥様に叱られてしまったのだろうか?


それとも何か壊してしまったのか?


何にせよ彼を励まそうと、私は坊ちゃんに笑いかけながら提案した。


「そうだ!何か美味しいものでも・・・」


「いらない」


励まそうとしたのが逆効果だったのか、そう一言だけ言って自分の部屋へと戻られてしまった。


目元が赤くなっていた事に後から気付いた自分自身に、私は酷く腹が立った。







「ねぇ、名無し」


「はい、何でしょう?」


ある日のことだ。


私が洗濯物をしまいこんでいると、坊ちゃんが私の後をついてきた。


これは珍しいことだった。


何せあれ以来、坊っちゃんはほとんど自室から出て来なくなってしまったのだから。


「名無しの大切な友達が、急にいなくなってしまったらどうする?」


突然のその問いに私は驚いた。


そして理解した。


「僕は何もできなくて、それで」


彼は、ひどく傷ついている。


そして自分を責めている。


詳しい事は分からないし、ましてや聞くことなんてできない。


そのブルーの瞳からは雫が滴り落ちていて、いくつも染みをつくっていた。


「僕は・・・」


私はただ、その震える体を抱きしめて一緒に泣くことしかできなかった。


ごめんなさい、こんなことしかしてあげられなくて。


以前のような笑顔を取り戻すことさえもできなくて、それでもただ目の前の幼い少年を想って私は泣いた。


私にとっては太陽のような存在だったから


愛おしくてたまらなかったから


ああどうか、神様―







もう10年も前の話になるが、私はある大きなお屋敷にお仕えしていたことがあった。


奥様が亡くなって私はそのお屋敷を出てしまったけれど、私を慕ってくれていた幼い少年の事がずっと気がかりだった。


いつからか笑わなくなってしまった少年は、今は誰かの隣で笑えているのだろうか。


くしくも今日は彼の誕生日だ。


最後にお祝いした時は、大きなケーキに喜んでくれていたっけ。


「シュウ様、お誕生日おめでとうございます」


私と貴方では生きる世界が違いすぎて、きっともう会える事などないのかもしれないけれど


私は今でも貴方の幸せを願っています。







pray
シュウ様誕生日記念
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ