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□逆巻家
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「海が見たいな」


唐突にそう言った。


深い森の奥に住んでいる私たちは、街に出かけることはあっても海へ行くことなど決してなかったから。


「海?」


「そう。きっと綺麗だよ。穏やかでずっと眺めていたいと思う位」


今までだって私たちは何処にだって行けたんだけど、何処へも行こうとしなかった。


それならば、せっかく勝ち取ったこの自由を行使してみようじゃないか。


「めんどくさい?行きたくない?」


「・・・」


沈黙は肯定だ。


何も欲しがらず、何も望まない。


出会ったときからずっとそうだった。


気が付くといつの間にか消えてしまそうなその危うさに、どうしても放っておけなかった。


ここに来てからも、何をするわけでもなくただ穏やかな日々を繰り返すのみ。


2人でいられれば十分だという、そのスタンスには共感している。


それでも彼には知って欲しかった。


世界はこんなに広いんだとか、綺麗なものがもっとたくさんあるんだとか


そんな陳腐でありきたりなことでさえも放棄してきた彼だから。


「ドビュッシーが」


「ん?」


頬を撫でるその手は優しい。


少し大きくてごつごつしたその右手を、自分の右手で包み込む。


「ドビュッシーが作曲した『海』は、嫌いじゃない」


「そっか」


こてん、と私の膝の上に頭を載せるシュウの髪を撫でる。


口を開けて大きなあくびをするその様子は、まるで大きな猫みたい。


「じゃあ、今度行こうよ」


仕方ないな、と小さく呟いてそれっきり目を閉じてしまった彼の姿に、私はくすりと笑ってしまった。







「やっぱり湖とは違うねー」


広大な海を目にしての第一声がそれ。


我ながら何だか間抜けだ。


空には無数の星が瞬いていて、反射した水面を輝かせている。


「ね?綺麗でしょう?」


どこか遠くを見つめながら、砂の上に腰かけるシュウ。


一体何を考えているのか。


「まぁな」


ワンテンポ遅れて返ってくる返事。


波打ち際で戯れていた私も、隣にそっと腰を下ろす。


「シュウ、マリンスノーて知ってる?」


「マリンスノー?」


「そう。暗い海の中で光を当てると、光に反射してキラキラ光る白いものがあるんだけど」


私は説明が下手だから、口で言うのがもどかしい。


ちゃんと見せてあげられたらいいのに。


「本当はそれは、全然綺麗なものでも無くて生物の死骸だったりするんだけど」


身振り手振りで説明する私はきっと滑稽なことだろう。


自分でも上手くまとまららなくて、必死に伝えたいと思うんだけど言葉が続かない。


すると突然、右肩が重くなった。


視線をずらすと、こちらに体を傾けて私の方を見ていたシュウ。


「それで?」


催促するような、それでいて優しい声色に安心しながらも、私は懸命に言葉を紡いだ。


「本当は綺麗じゃないものでも綺麗だって言う人はいるし、その逆もあるじゃない。


ものの見方は一つじゃないし、それに縛られなくてもいい。だから、その―」


彼が時々、遠くの方を見て目を細めるのは過去を引きずっているからだって知っている。


大切な人を失くしたことも、己の無力さを呪ったことも。


こうした今も、本心を隠そうとしているのだろう。


それでも彼には幸せになってもらいたい。


「名無し」


「何?って、あっ・・・!」


ぐいっと引き寄せられて不意に感じるのは柔らかい感触。


塞がれた唇は半分位開いたままで、口にしようとした言葉は零れて出てしまった。


大好きだから、伝えたいのに。


それでも唇が離れた途端、寂しくなるのは私のエゴだろうか。


「あ、あのね」


そんな寂しさを埋めるかのように、それは耳元へと移動する。


吐息がかかり、くすぐったい感触が蘇る。


「お前を通して見る世界は―」


―いつだって綺麗なままだ


大きく目を見開いた私の元に飛び込んできたものは、前よりももっと優しいシュウの笑顔だった。







君を知り、世界を知った
まるでドラマのワンシーンみたいな
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