綴夢
□彼を纏う
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「チンタラ歩いてんじゃねーぞ」
どう頑張っても、走らなければついていけない私と、そんな私を気にもかけずに進む彼。
少しくらい待ってくれても、なんて。つい漏れてしまった言葉は先を行く彼にしっかり届いていて、返事の代わりだとばかりにぎろりと睨まれた。
「グダグダ言ってんじゃねーよ」
彼の口は動いていなかったが、言いたい事は嫌と言うほど伝わっていた。
私は、ひたすら走る。彼の歩幅に合わせるには、歩いてはいられない。小走りでかろうじて追いつけるだろう彼の歩調に、私は黙ってついていく。会話などできる訳はない。ただただ必死だ。
「チンタラ歩いてんじゃねーぞ」
同じ言葉を何度言われただろうか。それでも。私は彼の背中を、ただただ追いかける。
息はとっくに切れていた。こめかみからつぅ、と汗が線を引く感触。肌寒くて着てきたカーディガンがかなり前から邪魔な存在に変わっていた。
いつの間にか、舗装された道路は途切れていた。それでも彼は進む。この程度の足元の悪さなど、彼ほどの男には論外なのだ。でも私は違う。
歩きやすさを謳っていたから新調した靴だったのに。それは道を歩く事限定だったようだ。舗装されていなくとも、整備されていればまだ持ちこたえただろうけれど。既に私の足元はでこぼこと、気を抜くと足元をすくわれるようなトラップがそこかしこに転がっていた。
悪い事は重なるものだ。足元ばかり気にしていて、ふと気が付いた時には薄気味悪い森の中だった。気づいた途端に周囲の気配に背筋がヒヤリとした。更には。一体私が何をしたのだろうか。陽が翳り、自身から伸びる影がぼやけていく。雲行きが怪しい。
急がなきゃ。空が崩れる前に森を抜けないと。もっと急がなければ。このまま彼を見失ってしまう。
・・・あっ。そう思ったのは一瞬だった。
彼の背中と、足元と。どっちつかずの視界が捕らえ損ねた何かに、私の体は大きく体勢を崩された。地面に手をついたと同時、白紙になった思考回路と緩んだ集中力が、私の意識と動きを幾秒か止めてしまった。暫く地面を見詰めた後、次に顔を上げた時にはもう、目の前の景色に彼の姿は無かった。
どうしよう。その姿が在る事。それが、この場所では私を守る唯一だったのだ。
どうしよう。彼を見失った事への焦り。そしてそれと共に生まれたのは、やはり、と言う諦めだった。
・・・そう。彼が待っていてくれた事など、私の事を気にかけてくれた事など、ただの一度も無かったのだ。
当然の話だった。だって、全て私が勝手にしていたのだから。彼が気になって、彼を知りたくて、彼の側にいたくて。話しかけて、後を追って、彼の周りをついて回っていたのだから。
『好きにしろ』・・・そう言われた。その、彼が確りとした拒絶を表さなかった事を良い事に、一方的に話しかけて、後を追って、半ば強引に彼の隣に居座ったのは私だ。
『好きにしろ』・・・彼の側にいてからも、何か有るたびにそう言われた。その言葉をいつからか『許し』であると、もっと言えば『愛情』のひとかけらであると錯覚していたのは、私。彼の側にいる事を当然と、必要とされているのだと自分本位に思い込んでいたのは、私。
彼はあの日から今まで、何一つ変わっていない。『好きにしろ』は、彼自身も好きにすると言う事だ。私に構わず。それは彼の生活ぶりからも明らかだった。彼の中に私の存在は欠けらも無い。それはきっと、私が彼に付きまとうその前から、そしてこれから先も変わらないものなのだろう。
ぱらり。そしてぽつり。雨粒の落ちる音が聞こえた。それでも、私の体は立ち上がる事を忘れている。
知らぬうちに貪欲になっていた自分に、滑稽さが込み上げてきた。
見ているだけで良かったのに、いつからか私を見て欲しい、に変わっていた。声を聞きたい、話したい、から、話しかけて欲しい、に。側にいたい、から側にいて欲しい、に。彼をもっと知りたい、は、彼に気にかけてもらいたい、に。
そうして私は、もっともっと貪欲になっていくのだろう。彼に触れたい、触れてもらいたい。私だけを見て欲しい、抱き締めて欲しい。それから、
・・・こんな風に置いていかないで欲しい。
じっとりと濡れてゆく景色と、微かに聞こえる獣の咆哮。
立ち上がるしかなかった。一人でも。
進むしかなかった。その先に誰もいなくとも。
泣くのをぐっと堪えて、俯いたまま歩き出す。
「遅ぇ」
・・・確かにそう言ったと思った。だから慌ててごめんなさいと返したけれど、彼はそんな言葉を無視して、くるりと背中を向けた。
そのまま歩き出す彼の背中をぼんやりと見詰めていた私は・・・急に立ち止まって振り返った彼の視線を追うように、慌てて一歩足を踏み出した。
鬱蒼とした森が終わり、視界が開ける。私は一歩、また一歩と、彼の足跡を追って歩く。
「しっかり焼けよ」
それは、彼が仕留め、右肩に抱えている獲物の事だろう。
彼の姿を見失った私が、また視界に彼を捉えるまでの時間。彼は狩りをしていたのだ。この場所で。この場所に留まって。
私が追いつくまでの間、待っていてくれた。そう思って良いのだろうか。
それとも。
たまたま良い獲物がいただけの事なのだろうか。
いつの間にか、雨は止んでいた。
未だ晴れきらぬ空は周囲を照らす力も弱い。けれど、彼と、彼が担ぐ獲物と、私の目に入る限りの景色全て。それが濡れている事ははっきりと教えてくれた。
私は漸く気付く事が出来た。
今、此処で。この場所で濡れていないのは、私だけだ。
・・・彼に守られていた。そう思って良いのだろうか。
不意に声が聞こえた。背後の森の中から。何処に潜んでいるのかも、その姿すらも知らない、獣のうなる声。
でも、私は、遭わなかった。あの森の中で。一人で、動けずにいた、あの場所で。
・・・彼に守られている。そう思って良いのだろうか。
「チンタラ歩いてんじゃねーぞ」
彼は振り返らない。気が付くともうずっと先を歩いていた。
それなのに、私の耳に届いた言葉は、まるで耳元で囁かれたと錯覚してしまうくらい、近い。
ほろり、と涙が落ちた。
瞬きを二、三度。零れた涙の数だけ遠くなったと思った彼の背中は、まだ、私が映す景色の中に在った。
獲物を担ぎ直す素振りが、私が涙を拭うと同時に終わる。
彼に守られている。守ってくれている。きっとそう思って良いのだろう。
私は駆け出した。全速力で。
彼に追いつかねば。その一心で。
「ゼブラさん!」
後もう少しで届く背中に、私のありったけの声をぶつけた。彼が立ち止まる。振り向いた彼を目前にして、私は二度目の転倒。
ぬかるみから激しく跳ね上がった泥は、彼の服だけを汚す。
私は一人で立ち上がった。差し伸べられる手は無い。けれども、ただの一点の汚れすら見当たらない、私の体。
守られている。そう。私はちゃんと、彼に守られているのだ。
私は、彼の服にそっと手を伸ばした。彼の眉が、ほんの少しだけ動いた気がする。そんなの構わない。伸ばした手で、そのままそっと彼の服を掴もうとして・・・やめた。
私は、彼の腕に手を添えた。一緒に歩きたい。そう零してみる。
『・・・好きにしろ』
確かにそう聞こえた。
そう。
何時だって、彼はそう言ってくれていたのだ。