綴夢

作った偶然の味
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偶然ですね、と笑う貴女に、

偶然だね、とボクも笑った。



もうすぐ陽が暮れる、影の増えた街の。

日照る暑さが緩んだ、どこか静かで、でもせわしない時間。

街の人気の小さなベーカリーは、時が背中を押した客で溢れていて。

ボクはその喧騒からただ一人、貴女の姿を、

モノクロの中から浮かぶ鮮やかな色彩を、捉えた。

その指先と口元と少し汗ばんだ肌と、穏やかな眼差しに揺れる長い髪。

貴女に声を掛けられるまで。

ボクは道を照らす街灯のようにただ。ただ佇んで、貴女だけを映していた。



お気に入りは何かと聞かれて、まさか貴女とも言えないボクは。

動揺が零れるよりも前に、目の前の小さなバゲットを指差してみた。

偶然ですね、と笑った貴女の。

私も同じ、と笑った貴女の、好みを一つ。ボクは頭に刻んだ。

いくつ買います?と言われて思わず、『二つ』と答えたボクは愚かだ。

誰かと食べると思われたろうか。いもしない誰かの影にぞっとした。

だから貴女の小食ですね、に救われた。



二人で並んだカウンターで、レジスターが奏でる音がずっと続けばと。

つい目の端に映った小瓶を手に取れば、美味しいですよ、と教えてくれた。

ならば貴女にもともう一つ手に取って、ついでにキミのバゲットも一緒に、なんて。

調子付いて、貴女のトレーも持ち上げた。

これが貴女の分と渡したものの、強引すぎやしなかったか?

驕った男と思われただろうか。貴女の困り顔にはっとした。

困った顔をやめた貴女の言葉が、なら次は私が、なんて魔法だったから。

じゃあ明日にでも、なんて口走ったボクは、かなりケチな男と思われたかもな。



偶然ですね、と驚く貴女と。

帰り道も一緒なんてと驚く貴女と、並んで歩いたレンガの道は、長く、とても長く続いていた。

貴女の歩幅に合わせて歩いた、ボクの足取りは震えていた?

不意に触れるお互いの感触に、いつしか貴女の頬が染まっていたのは、

陽が落ちかけても暑い、この街のせいではないと。

思うくらいは許してほしい。



送ってもらっては申し訳ないと、貴女はきっと断るだろうから。

ボクの家はこのずっと先だと、聞かれもしないのに口にしてみた。

ほんの少しでも良いから、長く。貴女と話をしていたくて。

このまま貴女の家のそばまで、自分の帰り道が続いていく。

本当に偶然ですね、と驚く貴女の。

この偶然が嬉しいと言う笑顔に、チクリと一刺し。

また明日、と手を振る貴女に、ボクも同じように手を振って。

一人になって、溜め息も一つ。

愚かなボクの手に、ズシリと重たいバゲットとジャムの瓶。

貴女が好きと言ったものが、愚かなボクを無言で責めた。



貴女の姿を見ていたくて。

貴女の側に近付きたくて。

貴女に、その笑顔を向けてもらいたくて。

貴女にほんの少し、触れたくて。

偶然ですね、と笑う貴女に

偶然だね、とボクも笑った。



偶然ですね、と笑う貴女を。

嬉しいと笑った貴女を想って、バゲットを一かけら。

一匙のジャムを乗せて、ボクはかじった。

ボクが作った偶然は、嬉しくて、甘くて、それから切なくて。


苦かった。




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