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□この感情を知っている
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「奇跡だ…」

完成原稿を目の前に、俺、吉野千秋はそう呟いた。

締め切りまでは後一週間も残っている。

今までにないくらいの早い出来に、優もアシの子も全員有り得ない顔で俺を見た。

「どうせまた、白紙の原稿とかが残ってんだろ!」

と優が言い、アシの子も

「そうですよ…有り得ないですよ!!」

と断言してきた。

俺は皆のこの発言に、何もそこまで言わなくても、と思いつつ、普段の自分の原稿の遅さを考えると何も言い返せなかった。

「とりあえず、原稿見せて。」

と優が言うので、原稿を優に渡し、チェックしてもらうことにした。

「ない。」

「えっ。」

「だから、書き残してる原稿とかが一枚もない。」

優のこの発言に俺は

「本当!?」と言って、優に改めて確認した。

「あぁ。」

そうして、冒頭の発言にまで遡るのだった。

俺はこの後、優やアシの子達を返して、トリに連絡しようとした。

「どうせなら、俺からあいつにちゃんと渡したいな…」

一人そう呟いた俺は、いてもたってもいられず、丸川書店に向かうことにした。




丸川書店にまで来た俺は、トリに連絡していないことに気がついた。

うわっ、いくら早くトリに見せたかったからって、俺浮かれすぎ。

と自分に苦笑しつつ、受け付けの子にトリを呼んでもらおうと思い、丸川書店に足を踏み入れようとした。

…トリ?

丸川書店の入り口近くにトリがいるのに気がついた俺は、トリに声をかけようとした。

「ト…」

「羽鳥さん。」

俺の声は丸川書店の女性社員の子によって遮られた。

えっ。

俺は慌て身を隠し、二人の様子を見ていた。

話の内容は聞こえないが、楽しそうに女性社員の子と話しているように見えた。

って違う!別にただ会社の同僚の子と喋ってるだけだろ、と自分に言い聞かせた。

しかし、次の瞬間千秋の目に飛び込んできたのは、羽鳥が女性社員の子の髪に触れているところだった。女性社員の子の顔を見ると頬を赤く染めて、嬉しそうに見えた。

って違う!別にただ会社の同僚の子と喋ってるだけだろ、と自分に言い聞かせた。

しかし、次の瞬間千秋の目に飛び込んできたのは、羽鳥が女性社員の子の髪に触れているところだった。女性社員の子の顔を見ると頬を赤く染めて、嬉しそうに見えた。

そこまで見た俺は、原稿が早く終わって、一人勝手に浮かれていたことが馬鹿らしくなり、

「帰ろ。」

と言って、丸川書店を後にした。





ガチャッ

鍵が開く音がした。この家の鍵を持っているのは俺とトリだけだ。

「吉野、入るぞ。」

俺の予想通りの声が部屋中に響き渡った。

「吉野、居るのか?」

俺の部屋の電気がついてなかったからだろう。トリは俺が居ることを確かめるように、部屋に入って来た。

パチッ

電気がつけられ、部屋の中が急に明るくなった。

「なんだ。居るなら電気くらいつけたらどうだ。今から飯作ってやる。」

トリが俺にそう言った。

いつもならその言葉に喜んで、トリが作ってくれるご飯を待っていただろう。

でも、今日の俺はとてもじゃないが、そんな気分になれなかった。

俺から返事が返ってこないのを不審に思ったのだろう。

「吉野?」

とトリが言ってきた。

「悪いんだけどさ、今日帰って来んねーかな。」

俺はなるべく普段のように言ったつもりだった。

でも、俺のこの言葉にますますトリが不審がった。

「どうかしたのか?」

とトリが聞いてきたので、

「別に何でもねーよ。」

と俺は答えた。

どうしてトリにこんな態度をとってしまうのか。それは多分、丸川書店で見たあの光景のせいだ。

この感情は前にも経験したことがある。あれはトリが前の元カノと会ってるのを見てしまった時。

そうこの感情は…嫉妬だ。

嫉妬するのはおかしいとわかってる。丸川書店で見たあの光景だって、俺の勘違いかもしれない。

頭ではわかっていても、心がこの感情を整理しきれていない。

これ以上トリと一緒にいると、トリに酷いことを言ってしまいそうで怖い。

だから、自分の気持ちに整理がつくまでは、ほっといて欲しかった。

でも、トリは帰るつもりがないらしく、一向に部屋から出て行こうとしない。

「吉野!」

さっきよりも少し強めに名前を呼ばれた。

「うっせーな!何だよ。自分のことは棚にあげて…丸川の女性社員の子と楽しそうに話してたくせに。」

俺はついに我慢出来なくなって、トリに丸川書店で見た出来事を話した。

そうしたら、トリが呆れたように俺を見た。

「あれは髪にゴミがついていたから、取ってあげてただけだ。そもそも何でお前は丸川書店に来ていたんだ?」

と逆に質問をされた。

「原稿が終わったから、トリに見せようと思ったんだよ。」

この答えにトリが驚いた顔をした。この反応に何だか無性に腹が立って、

「わかってるよ!これは俺の勘違いかもしれないって…頭の中ではそう思ってた。」

と訳の分からないことを口走っていた。そしてその勢いのまま

「でも、それでも、トリが他の誰かに触ってるのが嫌だったんだから、仕方ねーだろ。」

と俺は顔を背けて、トリにそう告げた。

途端にトリに後ろから抱きしめられた。

このトリの行動に俺は慌てた。

「トリ!?」

すると

「ごめん。」

とトリが言ってきた。

俺は訳が分からず、

「はぁ?」

と言い返した。

「不安にさせたみたいで、悪かった。」

「別にそんなんじゃねーし。」

俺が勝手に嫉妬して、拗ねてただけなのに、トリから謝られると反応に困ってしまう。

それから、トリが思い出したように言った。

「そうだ。原稿が早く終わったご褒美に、お前の言うことをきいてやる。不安にさせたお詫びも兼ねてな。」

俺は少し悩んだが、トリのこの言葉に甘えることにした。

「じゃあ…トリのご飯が食べたい。」

「あぁ。」

「それから、トリとどこか行きたいし、仕事以外の話もしたい。」

「お前が今回頑張ってくれたからな、そのくらいの時間は作れる。」

「それと…」

俺は少し言うのを躊躇ったが、今だけは素直になることにした。

「キスして欲しい。」

俺が滅多にしないこの発言に、トリはさっき原稿が早く終わったと言った時よりも驚いた顔をした。

でも、次の瞬間には甘い微笑みを浮かべ、何度も優しいキスをしてくれた。

だから、俺はこれ以上何も言えなかった。

本当は一番大切なことを言ってない。

『ずっと一緒にいて欲しい。』

俺のこの思いが伝わるように願いながら、これから始まる甘い時間に、俺は身を委ねるのだった。



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