記念企画部屋2

□ひとつの道
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記憶は、不思議なモノだ。

正直に言うと、もう白石蔵ノ介という人の顔は、私の中に殆ど残っていない。

それは当たり前のことだった。


大阪ならともかく、熊本に居て、白石を知っている人間に逢う事なんて無い。


例えば、プロになったこともあって、地元からの有望なテニスプレーヤーとして桔平の名前を聞くことは極希にな、あったけれど、それも多くはないのだから、白石の名前なんか聞く筈もない。


憶えていたいと願ったことも、時間と日常という、個人の意思では抗えない大きな何かに素直に従い、どうやら忘れて言ったけれど、見えなくなっていくこと、そして見えなくなってからの新しい自分に慣れていくための努力に忙しくて、寂しいと思うことも無くなっていった。



恋をしたのは、同じ盲学校の人。

お互い容姿で好きになることがないので、妙な美辞麗句とは無縁で。


穏やかな人だった。

とても好きで、隣に居ると幸せで、あの人の隣は、時間がゆっくりと流れた。


それでもどこかで、ずっと一緒に居るとは思えない自分が居たことも、知っていたけれど。


彼とは、振ったのたでも振られたのでもない。

彼は、海外に行って手術を受けることになった。

元々、彼の目が見えないのは、視神経や網膜には問題が殆ど無く、生まれながらの別の要因 ―― この辺は、付き合う上であまり関係無かったし、お互いこの身体では話したくないこともあるかもしれないのは、身体に不具合を持ったモノの不文律で、あまり詮索はしない。 ―― らしく、どうやら手術でその根本要因を取り除ければ、長らく機能していなかった目が今更普通に見えることは絶対にないが、光や、ぼんやりとしたモノの輪郭くらいは見えるようになるかもしれないとのことだった。



それを聞いた時思ったことは、純粋に嬉しいというだけ。

とても、とても、好きだったから、嬉しかった。

別れることになることも、寂しいと思わないくらい、とても、嬉しかった。

ごめんね、と、少し切なげに言った彼の声は、優しくて穏やかで、私の1番好きな、彼の声だった。

謝ることなんてなかよ、と、すぐに微笑うことができた。



好きになった人との別れは2度めだけれど、今度は悲しくはなかった。

空港へ行っても顔が見られる訳じゃないから見送りには行かなかった。


好きになってよかった。

出逢えてよかった。


貴方が、幸せになりますように――。
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