記念企画部屋2

□ひとつの道
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紡がれた言葉の意味を掴みかねていると、その応えはすぐにあった。

「蔵のおかげで、後悔せんで済んだから……。」

さっきは『白石』と呼んだ千里が、今度は『蔵』と呼んだ。


「あの時、手を離してくれて、1人にさせてくれて、ありがとう。」

にこっと笑った顔がどこか無邪気で、ふと、今も家にあるアルバムの中の、幼い彼女を思い出させる。


「恋は、出来たんか?」


女性に対してぶしつけに問うことではなかっただろうが、自然に口が訊いていた。

「うん、した。高校の時ね。」

「そっか、良かった。」

恋することを怖がっていた千里が恋することができたなら、あの時の別れは正解だったのだろう。

「蔵は?恋人……、」

「ん?ああ、まあ高校時代も大学ん時も、彼女居る時期もあったけどなぁ。」

「結婚はしてなかの?」

「おん。なんかなぁ。あんま長く続かんでな。」

「そ。勿体なかねぇ。」

「そういう千里は?」

「今はそういう人、私も居らんね。」

お互い特に含むところは無かったはずだが、自分達の恋愛の始まりがちょっと特殊だったために、なんとなくそんな報告をしあって。


綺麗に微笑うようになった。


やっぱ好きやなぁ、俺。

そんなことを、ごく自然に思った。

恋をしたという千里に、彼女の隣に居たことのある知らない誰かに、胸が痛んだりはしなかった。


ただそれすらも含めて、こうやって綺麗に微笑うようになった今の千里を、とても好きだと、思う。


家に眠るアルバムの、幼いいつかの女の子に似た、この笑顔が、結局俺はとても、とても、好きなのだ。

「……俺、また千里のこと好きになったかも。」

嘘では無かったけれど、あえて無かったことにも出来そうな言い方で、告げてみる。

「蔵、そぎゃんこつ言うと、別れた彼女に失礼やけん、やめとかんね。」

一瞬息を呑んでから、千里は言って、そっとスプーンを手に取り、チーズケーキを一口食べる。


「失礼は解っとるけど、しゃあないやろ。他の彼女と違って、千里とは気持ち残したまま別れてんのやから、会えばやっぱ好きやって思うわ。」


「…………ありがと。」

「―――っ、」

千里が、10年前、俺がよく見ていた、綺麗だけれど泣き顔に見えてしまいそうな、あの微笑み方をして、俺は流せなくなって、思わず息を詰めた。

「千里、」

後悔をしてるわけじゃない。

けれど……。


千里の前には、食べかけのチーズケーキ。


「チーズケーキ、」

それは、

それを好んで食べたのは千里ではない。

別れの時に、千里が最後に俺のために残していってくれなモノ。

「千里。」

呼ぶと、応えるように瞳が揺れる。

「……っ、蔵は、ズルかよ。」

少しだけ涙声で。

「好きって、言わんように、頑張ったのに。」

雨上がりの春の空みたいな泣き微笑いで、

「声、聞いた瞬間、好きって、思っても、」

言わなかったのに、と少しだけ拗ねたように、なのに大人の顔で、10年間多分ずっと、心のどこかで想い続けてた、初めて好きになった人が言った――。
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