歪みの国のアリス
□取り返せない 愛しい名
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「チェシャ猫、私の名前を呼んで」
アリスの声は僕の中で響き、僕の感覚を狂わしていく。彼女の言葉は唄の一節をなぞるようだ。
いっそのこと歪ませてくれればいいのにと考えてから、彼女が望んでいない返事を返す。
「アリス」
「違うわ。私は葛城亜莉子、よ」
ほら、呼んでちょうだいと君が言う。
僕が黙ってアリスを見つめていると、君はまた唄のように言葉をなぞった。
「もう一度だけチャンスをあげるわ。私の名前を呼んでよ、チェシャ猫」
「アリス」
アリスは冷たい軽蔑の眼差しで僕を見つめる。
口を開けて何かを発そうとして、結局諦めるように喉に押し込んだ。
僕を観察するような目が苛立たしげだが口元はつり上がっており、
「ふふふふ」
と声を漏らす。
笑っているようでいて、そうでない。彼女には今、感情が存在していないのだ。
その異様さが僕を笑えなくさせて、更には心まで青く冷めさせていく。
「チェシャ猫、あなた笑っていないでしょう。可笑しいわ」
僕の顔にはアリスと同じで、笑っているようでそうでない表情が張り付いている。
偽物なのだ、僕のもアリスのも。
「猫は笑うものだよ」
僕の顔は笑っている。
しかし僕がいくら猫は笑うものだと言っても、アリスがいくら可笑しいと言っても意味が無い。僕らは心から笑っていないのだから。
「ねぇ。私は今幸せなんだから、あなたも幸せのはずよ。どうして笑ってくれないの」
アリスは手にした青いカッターナイフを僕に見せつけるように胸の前でいじる。
アリスの言う幸せは、僕らが彼女に望む幸せではない。
なぜなら彼女の肉体にはもう血液が通っていないのだから。
「僕らはアリスが幸せになることを望んでいるよ」
この言葉は過去形にするべきだろうか。
彼女自身は幸福だと言うのに、僕らには不幸も同じに映るとはなんとも皮肉だ。
「やだ。これ血が付いてる」
アリスはカッターに乾いた血液が付着しているのを見つけ、刃が出たままのそれを放り投げた。
砂場に落ち刃が折れたカッターナイフを怖がるように見つめ、落ち着き無く手をさする。
「アリス」
僕はアリスに近付き、歪みを吸い上げようと手を伸ばした。
「いや、止めて」
彼女はひらりと身をかわし、僕との間に距離を取る。
青白い顔なのに、よく俊敏な動きができるものだ。
「どうして私を不幸にするの」
アリスはこちら向き直り、僕を責める。
アリスの顔には形だけの寂しそうな表情が浮かんだ。
「アリス」
「その呼び方もそう。亜莉子って呼んでくれれば、もうアリスになる必要なんて無い。私がアリスでいるうちは不幸なんだわ。現実から逃げていて、あなたたちがいて、私の歪みを吸おうとする。そのひとつひとつが私を不幸にするの」
もう消えてよ、そう言うアリスの目から涙が流れている。
けれどこれも偽物だ。彼女の瞳と心にはやはり感情など存在していない。
笑うのも泣くのも反射でしかないのだ。
「アリス」
それでも僕はアリスの近くに居てあげたくて、名前を呼ぶ。
「あなたって意地悪。私はこんなに幸せなのに」
アリスは眉間に皺を寄せ、僕を睨みつける。
涙の通った筋が頬に残り、彼女はそれを拭き取ろうともしない。
顔だけ見れば彼女は怒り、悲しんでいるようにとれるが、無論感情は存在していない。
「アリス」
僕はアリスにまた手を差し伸べる。
それは君が不幸だということを指し、もちろんそれをわかっていて僕はもう片方の手も差し出した。
「おいで、」
アリスは僕の彼女を待つ両手をあっさりと無視して
「チェシャ猫って灰色なのね」
と今更気付いたかのように口にした。
一人で確認するような物言いだった。
「アリス」
アリスの名前を呼んでも、もう君に届かない。
君が壊れていくのが僕には感じられて、自身の手が震えていることに気が付かなかった。
アリスが壊れてしまう可能性は大いにあった。そのこともわかっていた。
わかっていた、筈なのに。
「アリス」
もう取り戻せない彼女の名を呼ぶ。
けれど僕は君にすがるのだけは嫌なので手を差し出すだけだ。
「つまらない色」
その声色にこそ感情らしいものの欠片すら滲まず、僕は本当に笑うことを止めた。
fin.
笑屋さまリクエストのアリスと猫の話です。
キリ番ゲットおめでとうございます。そして、訪問していただき、本当にありがとうございます。
"どんな話でも構わない"と言って頂いたことに甘えて、まさかのバッドエンドです…。ラブラブ(死語)な猫アリ派だったらすみません。
笑屋さまご自身のサイトがあれば、置いてやって下さいませ。
個人の範囲内ならどなたでも保存して構いません(笑
リクエストしていただける方が少ないので、書いていてとても嬉しかったです。
ありがとうございました♪
そして、時間がかかってすみませんでしたm(_ _)m