歪みの国のアリス

□彼女の最期の日の願い
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亜莉子はその日、暖かい縁側の日向で彼女の猫と一緒にのんびりと座っていました。
彼女は裸足で、海の引いては返す波に足をあて砂を蹴るかのように、お日様の光にその素足をあてておりました。
穏やかで暖かい初夏の頃です。
一人と一匹の間の時間はゆっくりと流れ、何もかもが淡い真綿でくるまれているかのように柔らかです。
平穏でありながら、また何処にでもありふれていそうな雰囲気でしたが、気になることに少女の膝の上の猫は首から下がありませんでした。
その上猫は人間の言葉を喋ることが出来ましたが、今は何も語らずに大きく裂けた口をただにんまりとさせておりました。
一人と一匹で交わされる会話があるわけではありません。
しかし、そこには確かな絆があるように思えました。
少女は猫を信頼しておりましたし、猫は少女に絶対服従を誓っておりました。
厳密に言えば少女が怖いめにあった時、一番に助けてくれたのが今首だけでいる猫であり、それ故少女は猫を信頼し、猫は少女が作り出したものなので彼女の言葉が猫には"天の言葉"という宗教的な考えに称するにも値する絶対なものなので、彼女に服従する形を取るのでした。

「気持ちがいいわ。…少し眠たい」

先に口を開いたのは少女の方でした。
その言葉に対して、猫は膝から首のみの状態で少女を見上げました。
返事をしようとしましたが、彼女が口から出した言葉は頭の中をぐるぐる回るだけで、ちっとも溶けてこなかったので、猫は何と言ったらよいかわかりませんでした。
少女の話を聞いてはいましたが、猫は少女が眠たいと口にする前から眠たかったので、急に掛けられた言葉の意味をうまく理解することが出来なかったのでした。

「今日みたいな日は、何もせずにこうしていたい…」

猫が言葉で返事をしないのはいつものことなので、少女は構わず続けます。
とてもゆったりとした話し方です。
日差しはますます暖かく、少女の白い足をなでていきます。
それをくすぐったがるかのように、少女は下駄を飛ばす時みたいに足を動かします。
少女が足を動かす時の振動が膝にも伝わり、猫もそれにあわせてぐらぐらとします。
しかし彼はよっぽど眠たいのでしょう、撫でられていると勘違いをし、喉をゴロゴロ鳴らしてまどろみの中へ落ちていきます。

「不思議ね、とってもあたたかいの」

お日様にあたっているからじゃ無いわ、もっと違うあたたかさ…そうね、心臓から体全体がぽかぽかとしてくるの。心臓が一番あったかいの。こういうのって何て言うのかしら、…病気って意味じゃ無いわ、心臓があたたかいって言うのも例えよ。心があたたかくて、身体中に広がって行く感じなの。これはどういう感覚って言うのかしら、ねぇチェシャ猫。

そう少女が話す、その答えを猫は知っておりました。
けれど、猫には少女の言葉がもう聞こえておりませんでした。
すやすやという寝息をたてることもなく、それはそれは静かに猫は眠っておりました。
そのとき少女は空を見ていたので、猫が眠ってしまったことに気付いておりませんでした。
眠ってしまった猫を撫でながら、少女は喋ります。

「あの雲、あんパンみたい」

少女と猫を包む空気のように、ゆっくりとした動きで雲は進んでおりました。
それはあんパンではなく、飛んでいくフリスビーのようにも、ボールのようにも見える楕円の形をした雲でしたが、少女にはあんパンのように見えました。
あまりにゆっくりと進むので、あんパン雲を見つめていた少女は欠伸を一つしました。

「アリス」

少女は猫に呼ばれて、自身の膝を見ました。
猫はいつの間にか目を覚ましていましたが、少女は寝ていたことも知らないので、気が付きませんでした。
それよりも少女が驚いたのは、猫は見せたこともない真剣なような、悲しいような、嬉しいような笑い顔を向けていたことでした。
そのことに気付いた少女は何か言おうとしましたが、猫の次の言葉に遮られてしまいました。

「おめでとう、アリス」

僕らはとても嬉しいよ、と言われますが、少女には思い当たる節がありません。
しかし、その後に続いた猫の言葉で、少女は先ほどの胸の奥のあたたかさまですべて理解しました。

「アリスは幸せになれたね」

そうです、それはほんの一時かもしれませんし、未来永劫続くものでは無いかもしれませんが、確かに少女が幸せと感じた瞬間なのでした。
そして、猫の存在理由そのものが、少女を幸せにすることでした。
それが今、達成されたのでした。

「…そう」

少女はそう言われると正面を向き、大笑いしたくなるようでむず痒いような感覚に戸惑って、恥ずかしそうに笑いました。

「そう、ありがとう。みんな」

そしてまた猫を撫でました。
猫はゴロゴロと喉を鳴らしました。
二人を包む空気は、先ほどまでと変わらずゆったりとしていましたが、あたたかさが増したように思われました。
まだまだこれから日が高くなろうという頃でした。

「僕らができるのはここまでだよ。あとはアリスが決着をつけるんだ」

そう猫に言われましたが、少女にはこれまた思い当たる節がありませんでした。
なので、何のことだろうと考えながら猫の次の言葉を待ちました。

「あんパン」

猫がそう言ったので、少女は空の雲を見ました。
先ほどよりも少し歪な楕円の雲がぽっかりと浮かんでおりましたが、猫が言いたいのは雲のことではありませんでした。

「あんパンたちの戦争があったよね」

幸せという言葉に程遠いような"戦争"という物騒な言葉を取り出した猫でしたが、その話すスピードは空の雲と大差なく、言い聞かせるような口調でした。
少女はもう一度膝に視線を落としました。
それを待っていたかのように、猫は話し始めました。

「あの時、アリスは二つの選択肢を提示させられた」

猫が言いたいのは、どうやらかつてあった少女の悪夢の中の、こしあんとつぶあんの戦争のことのようです。
そう言われれば、明日が世界の終わりの日であるとして、こしあんかつぶあんのどちらを食べたいか、と問われことを少女は思い出しました。

「アリス、君はこの世が最後の時、何をしたいと思ったの?」

少女は、とりあえず最期の時にあんパンは食べないと思い、あの時何をしたいと思ったのか思い出そうとしました。
そして、すぐに思い出しました。

「あ、…わたし、」

思い出したのと同時に、少女はすぐさま行動したくなったのでしょう。
そわそわとせわしなく動いております。

「さぁ、行っておいで」

そんな少女にきっかけを与えるかのように、猫は少女を促します。
猫は"導く者"という役割でしたが、その役目はとうに終わったものだったので、彼女だけで行くように促します。
少女は猫をさっきまで自分が座っていた座布団に置きました。
少女の足は猫の言葉によって動かされますが、サンダルを履いたところでぴたりと止まりました。
少女は猫に振り返ります。
猫は相変わらず座布団の上におり、その姿はさながら敵将の首を飾ってある様子と似通っていますが、その表情は晴れやかです。
そんな猫の顔を見て、少女は帰って来る頃にはもうそのにんまり顔がいなくなっているのではないかと不安になります。
しかし、思い出した目的を早く達成したい心が足を再び可動させ、少女は猫と一緒に居た空間を後にしました。
ただ一匹残された猫は、いつものにんまり顔で少女と居た空間に降る柔らかな空気だけを見つめておりました。
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