「……世の中よ、」
ぽつ、と女が言を発した。
三蔵はペンを走らせていた手を止め、窓に身を寄せる女に目を遣った。
「道こそなけれ、思ひ入る」
女はいつものを笑みを浮かべず、ぼんやりと遠くを見ていた。
「山の奥にも、鹿ぞ鳴くなる」
「……どうした」
我に返ったように些か目を開いて、女は振り返った。
歌を聞かれていたのが恥ずかしかったのか、頬を染め誤魔化すように笑う。
「あ…、いえ、ね?」
「…何だ」
当然、そんなものに紛らわされる三蔵ではなく、追及の目を与える。
「…悟空が八戒のところに行ったので、静かでしょう?」
「ああ。この上なく嬉しいことだが」
「そうじゃなくて。こんなにシンとしていたら、何だか山に住んでいた頃のことを思い出してしまって」
彼女は慶雲院に来るまでの数年間、不出山と呼ばれるところで居を構えていた。
保護者的役目を担っていた待覚の傍にいることは、女が故叶わなかったのだ。
それがなぜ、三蔵の傍にいることは許されたのか、未だに分からないが。
「待覚様の負担になっているのが辛くて悲しくて、逃げるような思いで入山したところも少しあったんです」
三蔵は腰を上げ、ゆっくりと女に近付いた。
一服も兼ねてだったが、遠くで見るには、今の彼女は儚過ぎたのだ。
「でも全然楽にならなかったなあ、って。思い出してたら、異国にこんな歌があったのも思い出して……」
「つい口ずさんだ、というわけか」
「はい」
この世というものは、つらいことがあっても逃れる道はないものだ。
一途に思いつめて入った山の奥でも、悲しいことがあったのか、鹿の鳴く声が聞こえる。
「私は、ずっと逃げてばっかりなんです」
意気地なしなんですよ、と俯いて、それっきり黙った。
彼女が昔どんな風に生きてきたか、三蔵は知らない。
知ろうとも思わない。
今目の前にいる彼女が真実である限り、過去などどうでも良いことだったのだ。
「俺からも逃げるか?」
一拍置いて、三蔵はそう投げかけた。
弾けたように驚いた表情を見せる女。
そんな彼女の頭にそっと手を遣る。
「お前は俺の傍を離れない」
「三蔵様…」
「俺のものだからな」
まるで玩具に執着する子供のようだと、三蔵は内心自嘲した。
「そうだろうが」
「──はい」
半ば観念したような微笑みに息を吐く。
どうも慣れない。
5年以上共にいて、この女は未だ読み切れない一面を持つ。
「それに、静寂を楽しむなら今だぞ。明日になればまた暫く喧しいからな」
「きっと悟浄達も来るでしょうからね」
ここで三蔵はやっと煙草を取り出した。
建前を忘れてしまっては、本音を見破られてしまう。
恐らく、彼女は気付いているだろうが。
「──独りじゃ、…ないんですね」
ぽつ、と言ったこの言葉は先程よりも穏やかだった。
“独りじゃない”。
これは三蔵も悟空も、八戒も悟浄も、皆が思うことだ。
「皆に出会えて、本当に良かったと思うんです」
「あ?」
「だって、そうじゃなかったら人界に友達いなかっただろうし」
「………」
へらっと冗談のように言った言葉も真実だろう。
「離れませんよ。三蔵様は私のものですから」
「……言ってろ」
ふんと鼻を鳴らす。
紫煙を吐き出して、こいつのもんになるのは悪くないと柄にもなく思った。