風日祈宮
□嫁に来ないか
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居酒屋の畳で酔い潰れていた乱菊は、揺り起こされた振動に呻き声を洩らした。
「……誰よ?」
仰向けられた所為で、長い間うつ伏せていた目に照明が痛い。乱菊は肘で目許を覆った。そろり、と頬を撫でる毛の感触に、目蓋の裏を見慣れた銀色が過る。
「…ねぇギン。あんたさ、頭領さんがあんたにピッタリの狐のお嫁さん見付けてくれたら、どうすんの?やっぱ帰るの?」
乱菊は伸びてきた手の大きさに違和感を覚えたが、慰めるような優しい動きに黙って撫でられることにした。
「ギンが来てからね、毎日がすっごく楽しくなったの」
乱菊の頭を撫でていた手の動きが止まる。
「ご飯作ってくれる、とか、掃除してくれて楽できるからじゃないのよ?そうねぇ、ずっと独りだったからかなぁ、話しかけたら返事してくれる相手がいるって良いなぁって」
引っ込んでしまった手を引き寄せ、乱菊は頬擦りした。知っているものと大きさも温かさも違うような気がしたが、此処が居酒屋だから大人の姿になっているだろうし、自分が酔っているからだろうと納得した。
子狐相手でも、酔っていなければ吐けない本音もある。
「あたしね、ギンが好き…なんだと思う。いつから、なんて訊かないでよね」
くすりと笑う気配がした。鼻先で揺れる毛が擽ったい。乱菊は身を捩って寝返りを打った。こっそり目頭に浮かんだ涙を拭う。自覚したのは、つい先ほど。生きる世界の違いを見せつけられた上に、今度こそ本当にいなくなってしまうのかと懼れた乱菊は、考えることを放棄して酒に逃げたのだ。
額に汗すれば報われるなら、いくらでも何処にでも行く覚悟があった。しかし、迎えに行っても返してもらえないなら、御山に登る意味はない。かといって、ギンが自分の意志で下りてきてくれるのを、ただ待つだけの日々には耐えられない。自分が狐に生まれていれば…、ギンが人間として生まれていたら…。叶わない「たられば」ばかりが乱菊の重く苦しい胸中に降り積もっていく。
「ねぇ、こんなことになるなら、逢わなきゃ良かったね…ギン…」
涙と一緒に零れた乱菊の呟きに、息を呑む気配がした。しばらくして遠慮がちな手が乱菊の髪を梳きはじめる。漂ってきた鼻を擽る芳香に、乱菊は意識を手放した。
* *
人通りもまばらになった夜道を、やけに大きさの違う影が寄り添って歩いている。
「のう、市丸。お前、俺らの尻尾の数の謂われ、知っとるか」
教えてもらっていないものは知らない、とギンは地面から視線を逸らさずに答えた。取り敢えず今は一本だ、と答えたら殴られそうな気がして、ギンは素直に返事をしておく。
「神通力の差、とか言われとるけどな、違うんや。頭領んなるまでの時間や、と俺は思っとる」
先代から頭領を引き継いだとき、ちょうど五百年だったような記憶がある、との呟きに、ギンは真っ直ぐ狐頭領を見上げた。綾織の袴を握っていた小さな手が細かく震えている。ギン本来の尻尾の数が、そのまま頭領の残りの寿命だとしたら…?
「お前、今、俺のこと勝手に殺したやろ。クサレ狸がどない説明したんか知らんけど、代替わりは先代が死んだ時だけ違うぞ?」
「……そうなん?」
先代は今も地方の古神社で悠々自適な隠居生活を送っている、と爆弾発言を落とした。脳天を直撃するショックに、ギンは眩暈でふらついた。
最初の狐頭領である先々代が数年前に身罷ったばかりらしい。頭領を務められる神通力がなくなっても、その力は各神社に派遣される狐とは段違いに大きい。次代に頭領を任せた後は、隠居とは名ばかりの僻地任務に着くのだ。頭領一人の肩にかかる負担を減らす為に先々代が考案したシステムだ、と頭領はギンに分かり易く説明した。
「ほな、頭領も?」
「俺を何処に飛ばすんか決めるんはお前や、市丸」
出来れば西に行かせてもらいたいものだ、と空を見上げた頭領に、ギンは悪戯っぽく笑った。
「あぁ、カノジョ?頭領が頭領んなった時から西の要なんやんな?」
「黙れクソガキ!ちゅうか誰に聞いた……あんのクサレ狸か」
次に見掛けたらシメる、と息巻く長身を見上げ、ギンは要領のいい狸な副頭領を思い浮かべた。彼なら巧く逃げおおせるような気がする。…そう、道中の大半をナンパに費やしながら。見掛けたのか、とギンを問い詰めようとしてから、頭領は思い出したように背中に負ぶった乱菊を担ぎ直した。
「あれ?ほな、頭領は誰の嫁探しで山下りてきたん?」
いや、確か頭領の目的はギンの嫁探しだと、そう、マンチカンの雌猫を口説いていた、あの副頭領が…
「…おい。惣右介に会うたんやな?怒らんから言うてみぃ」
口では「怒らないから」と言いつつも、纏う空気が見事に裏切っている。ギンは上目遣いで表情を窺ってみた。笑顔っぽい般若面が外灯に浮かび上がる。
「ととと頭領!顔!顔怖いっ!」
「ちょっ…、しぃーや、しぃー」
大声を出したら乱菊が起きてしまう。まだ内緒話が残っているのだ。ここでギンを制止しなくては、袖に仕込んだ眠り薬程度では乱菊に目覚められてしまう。
「…おいゴラ、逃げんな」
忍び足で脇道へ逸れようとしていたギンは、ドスの利いた低い声に竦み上がって動けなくなった。おそるおそおる振り返る。御山に連れてこられた当初に戻ったような恐怖に、ぎこちない笑顔さえ作れない。
「あー、いや。…済まんかったな。逃げんな言うただけや、そない怖がらんでも良ぇがな」
ギンの前に立った頭領は、小さな影になっている足元を一瞥して「洩らしてへんみたいで良かったわ」と片方の口の端を吊り上げた。
「も…洩らして、て」
「お前、良う洩らしとったやないか。ほんまジョージョージョージョー所構わず…ったぁ!」
住宅街に裏返った悲鳴が響いた。暗闇にも真っ赤に顔を染めたギンが、頭領の足を踏んだのだ。
「ひ、ひとまず落ち着こうや、なぁ、市丸?」
痛さに跳び上がりそうになった弾みでずり落としかけた乱菊をしっかり担ぎ直すと、頭領は膝で器用にギンの背を押した。
* *