風日祈宮
□Wが悲劇〜吉良イヅルの受難
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イヅルは女の子が大人しく触れられているのを確認すると、改めて抱っこして土間に座り直し、男の子の手から椀を受け取った。
「君は言葉が話せるんだね。じゃあ、この子は?」
はしゃいでじゃれている女の子は、相も変わらずイヅルの耳には『吉良吉良』としか聞こえない高い笑い声を出している。
「ホンマは話せる…いや、話せたんや。最近までは」
男の子の低い声に、イヅルは女の子が話せなくなった頃から今日までの長い話が始まるのだろう、と胡座の中に女の子を落ち着かせた時、急に男の子が踵を返した。
「やから乱菊は唖者(おし)なんかやない」
「……。えっ?」
男の子は布団を敷いてある部屋へ戻ろうとした足を止めて、間抜け声と顔のイヅルを振り向いた。
「せやから乱菊は唖なんかやない、て言うとんの」
分かったのは女の子の名前だけで、経緯については『強風が吹いたので運良く儲かった桶屋』の話より簡素すぎて、イヅルには全く分からない。取り敢えず女の子が『らんぎく』という名であることは判明した。会話の切っ掛けは名乗りか時候の挨拶と相場で決まっている。イヅルが口を開こうとた矢先に男の子が話し始めた内容は、更にイヅルを驚かせた。
「イヅル。吉良イヅル。此処ら一帯治めてはる吉良家の嫡男。お義理でさして貰うたみたいな元服から、十の年と二月。運命が認めた、ホンマの当主。やけど今はただの隠居浪人」
数年前だか十数年前だったか、イヅルは流しの占者にも同じような御告げを貰ったが、男の子のような断定ではなかった。まるで御仏がイヅルの進むべき道を指し示すような、荘厳な響きさえあった。…今は隠居の身である、という部分に明らかな嘲笑が含まれていても、だ。
「な、何でそんな家の事情まで知ってるの?」
元服は済んでいる。廃嫡されたのは元服した直後だった。仮にも前領主の跡取り息子だったイヅルを寺の小坊主にする訳にもいくまい、と体裁を気にする割にケチな叔父は、早めの元服と時を同じくして一軒屋とは名ばかりのあばら家にイヅルを遠ざけた。男の子の言う通り、義理で元服というのも強ち間違いではなかった。
「寺に入れられた方がマシやった、父様と母様の供養出来たのに、とか不満に思っとる」
薄い唇が情け容赦なくイヅルの過去と現在を暴いていく。胡座の中で笑い声を上げる女の子・乱菊とは対照的な冷酷さだ。そうだ、イヅルは今さら気付いた。この二人は色も雰囲気も全てが対照的なのだ。それなのに揃っていないと決定的な何かに欠ける。陰と陽のように対を為して一つ…
「君たちは兄妹?」
ようやく肩にかかる程度の乱菊の髪を撫でながら、イヅルは男の子を見上げた。イヅルの鼻をお日様の良い匂いが擽った。干した布団の移り香にしては強いな等と微笑む余裕が、まだイヅルにはあった。
「ボクと乱菊は兄妹やないよ」
胸元辺りから『吉良、吉良』と細い手が伸びて、イヅルに何かをねだってくる。男の子と同様、腹が空いているのか、と竈に掛けた鍋を指差して訊ねてみても、肯定も否定もしない。無邪気に笑っているだけだ。
「ちなみに乱菊は野菜や穀物は食えへん。肉や魚しか受け付けんくなってしもた。若様が美味そうに見えたん違う?」
真っ直ぐに伸ばされた乱菊の白い手にそんな意味があったのかとイヅルは身を固くしたが、男の子は喉の奥を震わせて笑った。
「畑のモンを食べれへんのは嘘やないけど、人は食べへんよ?そこまで乱菊は堕ちてへんし、悪食でもあらへん」
唐突に現れた二人に、僅かだが寝床と重湯を提供したイヅルは、悪食とか食料以下とか何やら酷く蔑まれた感が否めない。だが乱菊は変わらず無邪気に笑って手を伸ばしてくる。恐る恐る握り返してやると、光が溢れたような暖かさがイヅルの全身を包んだ。
「…お天道様みたい…」
イヅルが呟くと男の子は苦々しく顔を逸らした。人の心の機微に敏くならざるを得なかったイヅルは、その変化を見逃さなかった。
「何があったの?」
男の子が小さく乱菊、と呼ぶと、一瞬で女の子はイヅルの膝から男の子の横に移動した。
「こン若様、アタリや思たけどアカンわ。質問多すぎ。気に入っとったみたいやったのにご免な?」
食料の次はくじ引きのハズレにされてしまった。謝って欲しいのも、納得が出来ないのもイヅルだ。いきなり現れたかと驚いていたら片方が倒れて、さんざん過去を暴いた挙げ句に『ハズレ』扱いは、達観の免許皆伝のイヅルでも「はい、そうですか。では御縁がなかった、ということで」では済ませられないものがある。
「…此処を出て、次に何処へ行こうと君たちの勝手だけど、せめて使った椀を洗って、もう一度布団を干してってくれないかな?」
背中を向けて歩き始めていた二人がイヅルを振り返る。昼でも薄暗い庵の闇に浮かんで二人を包んでいた淡い光が、突如消えた。
「…へぇ?意外にホネあるんや?気弱なだけやったらハズレやったけど、」
男の子は女の子に向き直ると、イヅルには見せなかった笑顔で語りかけた。
「乱菊の勘、当たったみたいやね?ほな、ボク等の願い事叶えて貰える思う?せやったら一宿一飯の恩返しの寄り道くらい構へんし」
土間に立ち上がったイヅルとようやく同じ目線になるかどうかという子供二人に一宿一飯の恩を返して貰わなければならないほど落ちぶれていないと叫ぼうとした矢先、男の子が自己紹介を始めた。
「ボクはギン。まんま『ギン』だけ。で、此方が乱菊。乱れ咲く野菊、で乱菊。宜しゅうな、吉良の若様?」
片言でしか話せない肉食しか受け付けない女の子・乱菊と、乱菊以上に訳有りで謎だらけの冷たい雰囲気の男の子・ギンの二人は、こうして吉良家の若様・イヅルの庵に転がり込んだ。
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