少し長めな読物

□徒花
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 「ただ今戻りました」

 水回り以外に一間しかない狭い官舎に帰ると、ひっそりと夕闇が迫ってきていた。静かに縁側に座っていたひとが、白痴の笑みを浮かべて、両手を伸ばしてきた。

 「遅くなって済みませんでした、すぐに夕飯支度をしま…」
 夕飯の用意をしようと入った水屋の机上に、布巾を掛けたままの、昼用に作っておいた食事が、そのまま残っていた。

 壁の隅や、向こう側からは、秋も深まり、力尽きようとしているのに、必死に泣き続けようとする虫の声が聴こえてくる。


 重罪人であるこの人を引き取り、事務関係の閑職への異動がすんなり通って、どれくらいになるのだろう。この人には、あとどれだけの時間が残されているのだろう。引き取りの際、胸に刻まれた罪人の証が消える迄と説明されたが、全く薄くなる気配のない烙印…それが消えるということは、霊体そのものの消滅を意味するのだと気付くのに然程時間はかからなかった。

 最近は食事量も随分と減った。夏の終わり頃から少しずつ少しずつ、確実に減っていく時間に比例するように、透明度を増していくひと。そのまま大気に融けていってしまいそうな錯覚に陥る。放っておけば、何時間も何日も、それこそ何ヵ月も座ったまま動かずにいるような人を、わざわざ殺しに来る物好きなどいなかった。放っておけば、見棄ててしまえば、餓死させられる。布巾を戻しながら、一つため息を吐いた。

 「今日は、誰か来ましたか?」

 答えなど期待して尋ねている訳ではない。返事がないと知っていても、話し掛けるのを止めようとは思わなかった。
 「ここ最近、寒くなってきたので、温かいものにしましょうね」
 外からは、微かな虫の声が寒々と響いている。


 一口分ずつ取り分けて、小皿に盛って、はじめて箸を付ける。その量も目に見えて減った。茶に拘るのだけは昔と変わらない。少し安堵する。まだ何かに拘れるうちはいい。拘り続けて欲しかった。むしろ拘わり続けているのは自分だという自覚が強い。この人がいなくなれば、何かが崩れてしまいそうで…。それは、かつての忠誠心だとか、生きていく意義だとか、そんな大義名分や、小難しい意味付けを出来るものではなくて、たぶん自分を形づくるそのもの…『吉良イヅル』を『吉良イヅル』足らしめている全てなのだ。生きていて欲しいと願うのは、単なる我儘に過ぎない。それほどまでに『市丸ギン』は今も昔も、全てを凌駕する存在だった。



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