短い読物

□幻月
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 いつもの夜のお散歩。一杯引っかけて、気分良く瓦の上を瞬歩で。と、何十歩目かで、風流な琵琶と琴の音が、聞こえてきた。それよりも耳に真っ先に入ってきたのは、聞き覚えのある唄い手の声。

(乱菊や)

 足が自然にその方向へ向かう。明日は朝一から隊首会がある。寄り道をして遅くなると、多分、隊首室前で仁王立ちしている副官の笑顔を拝めること請け合いだが、足が止まらない。

 とある一軒の生け垣前に着いた。隙間から覗くと、華やかな顔立ちを引き立たせるような、鈍色の衣装をまとって、扇片手に唄いながらの舞手を見付けた。

 乱菊が日本舞踊を習っていることは、噂を聞かなくても知っていた。だが、どこで、どの師匠に師事しているかまでは、ギンは知らなかった。

(こないなトコやったんや…)

 頭に浮かんだのは『艶姿』という単語。いつの間にこんな色香をまとうようになったのやら…。ぞろぞろと付きまとう男性死神が多いはずだ。ギンにとって、乱菊はいつまでも昔のまま、可愛らしい、守りたいという存在のままだったから、気付かなかった。

(あ、今、引っ掛かりよった)

 案の定、師匠の指摘が入る。しばらく眺めていたくなったので、稽古部屋が良く見える向かいの屋根の上に陣取った。

…宇治の橋姫

 幼いとばかり思っていたのに、知らない間に艶やかになっていた。記憶というのは、なかなか恐いものだな、と苦笑するしかない。記憶の中の乱菊は、いつも自分の姿を探して、自分の名前を呼んで、自分のあとをついてきていた。

 勿論、今は違うと判っている。弱い女ではない。確固たる自己を確立して、己の足で立ち、己の決めた道を歩けると知っている。そんな彼女だから、好きなのだ。多分に虚勢をはっている場面では、誰が気付かなくてもギンは気付く。そういう意地っ張りな所は、昔から変わらないから。

(お師匠サンには素直なんやな、当たり前やけど)

 もう一度、お稽古を付け直してもらうべく、頭を下げている。一緒にいた頃にも、あんな素直さを見せて欲しかったなと思う。意地っ張りでも十分可愛かったけれど。

 気丈で気さくな『十番隊副隊長』以外の、今の松本乱菊を見られただけでも、出掛けて寄り道した甲斐があったというものだと、踵を返して帰路についた。



「何よ…これ?」

 翌朝、自室を出ようとしたら、躓きかけた。
 小さな細長い箱。包装もされていないが、どこを探しても差出人もない。捨てようかとも思ったが、中身だけは拝見しようと開けてみた。

 薄闇に朧月の扇。

 良い品だ。仕立てをみれば直ぐに分かる。そこいらの和装小物ではない。留め金一つ見ても分かる。昨夜のお稽古の時の衣装に合わせたような色目と柄。

(…ギン)

 気のせいかと思った微かな霊圧に、間違いはなかったのだ。

 いつも背中しか見せてくれなかった。何をやらせても、そつなくこなしてしまう嫌味な男。いつも名前を呼んで、姿を探して、追い掛けてた。自分は何時になったら、彼の横に立てるのだろうと自信が持てなかった。
 幼い頃の記憶というのは中々に根強いもので、『助けてもらった』という事実が、乱菊から自信を奪っていた。虚勢を張ってしまうのも悪い癖だと自覚している。けれど、どうしても彼に相応しい女になりたかった。

 いつも余裕綽々な、腹の立つ…でも乱菊にとって、唯一『男』にみえる男。いつからか、彼しか『男』に見えなくなっていた。もしかしたら、それは初めて出逢った時から決まっていたのかもしれない。

(憎いアンチクショウ、とか言うの、あったような気がするんだけど、あれ、当たりよね)

 追い掛けても追い掛けても近くに感じられない、あの広い背中に、素直に凭れられる日が来て欲しいとは思わない。飄々とした雰囲気そのまま、風のように駆け抜けていく途中で、ふと疲れた時に、寄り掛かってもらえる存在になりたかった。
 精一杯頑張っても、埋めようのない差は諦めた。だから、彼にとって『唯一の女』になりたかったのだ。彼が安心出来る場所。帰りたいと、安らげる場所に。

(この扇は、少しは認めてくれたって自惚れていいってことなの?)

 何時までもあなたのそばに。いくつもいくつも見える幻ではなく、唯一の…。今はまだ朧月だけれど。





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