短い読物

□狂喜
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 ドアのない部屋。窓がひとつ。ベッドと、ゆったりとした背凭れのある椅子がそれぞれ一つきりの、物も飾り気のない部屋で、一人の男が、鏡のように空間を丸くくりぬいた虚空に映し出される映像を観ている。ただ観ているだけ。窓辺の椅子に凭れ、音声のない映像をぼんやり眺め続けている。無声映画のように乱れる画像に眼を凝らす。此処に来てからというもの、朝も昼も夜もない。語り部の居ないトーキーのような画像を、能面のように表情を消した顔、笑いも泣きもせず、ただ眺めている。どこからか運ばれて来る食事は、全て手付かずで下げられた。

 映像は、一人の女性を中心に映し続ける。自信に満ち溢れた、勝ち気な表情がクルクルと切なげにも変わる。映像の中の女の表情が変わっても、男は微動だにしない。ただ、観ているだけだ。今までと同じように、これからもずっと観ているだけ。その時が訪れるまで。

 彼女のことは本人以上に知っていた。永い間、みてきた。見守るでも、寄り添うでもなく、ただみてきた。かつては、寄り添い、守っていた時期もあった。セピア色より色褪せた、記憶の欠片は、ここに着いた時に、一面の砂に捨ててしまった。この先、必要ないからだ。彼女にも、自分にも。殺し合うしか道は残っていないのだから、不必要なものは捨てる。ずっと、そうして様々なものを切り捨ててきた。想い出も、感傷も要らないと、あっさり棄てた。映像だけが流れ、動いていく。時の止まったような部屋で、異世界の時間が刻まれる。


 気紛れに壁をすり抜け、無機質な白い虚無の中を歩き廻る。仮面を着け、道化を演じながら、歩き廻る。痴れ者たちが、着々と小賢しい準備をしていた。覇権にも武勇にも興味はない。流れに逆らう愚か者達と馴れ合う振りをして、ただ、その時が訪れるのを待つだけ。

 懐かしい顔ぶれが、映像を横切る。少し手を伸ばしてみた。伸ばした指の先には彼女の髪。柔らかそうに波打つ暖かい黄金色。もう少しで触れることが出来る。血に染まるか、染められるかは、知らない。たとえ血に染まったとしても、艶を失わないだろう黄金色に、もうすぐ触れられる。もうすぐ。そう、もうすぐ。小さな映像の中の彼女ではなく、本物に触れられる。

 初めて嘲笑った。



 重い腰を上げ、手を振る。思ったより長い時間観ていた映像を、空間ごと消す。もう、ここには戻らない。手挟んだ、馴染みの愛刀から伝わるのは狂喜。始まるのは、殺し合いという名の会話。ようやく、会える。何も残っていない、この空っぽの胸を貫かれるか、何かを捜し続けるようにさ迷っていた、彼女の瞳が色を失うまでかは、分からない。撃ち込む力の強さに、執着という名の愛情を感じ、受け取ってくれれば良い、と、それだけを願う。


 祈るように、虚空に呟く。

「乱菊…」

 彼女に、この狂気が伝わらないことを切に願う。

 丸めた肩を揺らして、道化の仮面を着ける。道連れは愛刀だけ。今から、彼女にもう一度会うためだけに、殺されるための舞台に上がる。





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