市丸帝国

□仔狐カスタマイズ
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 勤勉という言葉を生まれつき持ち合わせていなかったと信じて疑わなかった副官が、珍しく眉間に皺など寄せた難しい顔をして書物を繰っている。

「どうした、松本?分からない事例でもあったのか?それとも古すぎて読めないのか?」

 乱菊が手にしている書物は遠目に見てもかなり古びている。読めない箇所があったとしても不思議はない、滅多に見かけない異様な装丁だ。それなりに古い時代の過去事例を引っ張り出してこなければ仕上げられない報告書の提出などあっただろうか?と、日番谷は記憶を紐解いてみるが、さっぱり見当たらない。

「…え?あぁ、隊長ですか。どうかしました?」

 仰有る通り俺は十番隊の隊長ですと答えれば良いのか、どうかしたのはどちら様ですか?と問い返せば良いのか、甚だリアクションに困る質問に、『沈黙は金』という諺が日番谷の脳裏を掠めた。

「…『どーしました?』じゃねぇだろ…」

 元来のツッコミ精神がヒョッコリ顔を出す。あの『市丸ギン』が姿形こそ縮めど再来してからは、十番隊は漫才主従だと揶揄われていた、かつての調子が完全に戻ってきた。日番谷が悟りの境地に辿り着いた現在では、昔の喧嘩漫才が単なる漫才コンビに変わっただけだ。

 質問に質問を上乗せされた挙げ句ツッコミ込みで返されても、乱菊は上の空のまま書物から視線を上げようとしない。いつもならばカビ臭いだとか読み辛い等と愚痴の大盤振舞になるのだが、今日に限って食い付きかねない程の異様に必死な形相で集中している。

「じゃあ、質問の内容を変えよう。『そんな古い書物を出してきて、いったい何を読んでるんだ?』」

 日番谷の問いはまたもや完全にするスルーされる。しかもどうやら読み詰まったらしく、乱菊の方からカビ臭い冊子片手に隊首席へ近付いてきた。

「これ、源氏物語でも原本複製に近いものらしいんですけど、墨が滲んでる箇所があって…」

 日番谷が欲しかった答えの一つは与えられた。読んでいたのは源氏物語で、原本に近いということは書かれてから軽く千年以上は経過している代物、すなわち貴重な骨董本だ。

 そこで日番谷は当初の疑問に突き当たる。副官の意味不明な行動だ。訳の解らなさなら春先にフラリと訪れた仔狐と良い勝負だ。真剣に思い詰めた表情だった上に相手は記憶を失っている見た目は子供。だが中身はあの市丸ギンそのものだった。日番谷とて決して気を弛めて油断していた訳ではなかったが、改めて思い返してみれば、最終的には良い様に遊ばれたとしか考えられない。とどのつまり、あの狐は何処まで行けども『市丸ギン』以外の何者でもなかった。

 その仔狐との実益がなかったやり取りより、日番谷の呟きを真に受けた仔狐の仕出かした騒動の方が悪夢だった。この際、百何年前かは詳しく知らないが、どちらがどちらに影響されたから似ている、等という疑問は持たない。似た者同士が互いに引き合っただけだ、と勝手に決めたのだ。思い出したくない過去は封じ込めるに限る。これは長年の死神生活の中で培った経験則だ。

 そこで日番谷は一先ず現実に戻ることにした。湯呑みに手を伸ばしついでに副官の執務机の上を一瞥してみる。

(…とっくに『桐壺』は読み終わってるとして、何で『夕顔』も次の『末摘花』もないんだ?)

 たかが一日や二日で仕上がるとは想像だに出来ない量の山積みだった書類は綺麗に片付けられており、数冊の古い本と筆記具が置かれているだけだ。あとは何もない。

 幼馴染の趣味が読書という事情と教養を深めるのに丁度良かったという理由で、日番谷は古典から現代まで有名どころは読破してきている。当然その中には源氏物語も含まれていた。

「どーかしました?」

 乱菊が開いた頁の墨で滲んだ一ヶ所を指差したまま、疑惑を顔一面に塗りたくった日番谷を覗き込んでいる。

「…いや。でもソレより前のは読めたんだろ?なら、前後の流れを推測すりゃ、自分で判断…」

 日番谷が顔面に押し付けられた冊子を突き返して表紙を指し示したが、見事に切り返された。

「必要なかったからこれより前は読んでませんもん、あたし」


【若紫】


 シレッと言い切った副官の何処にも悪びれたところは見付からない。有名古典に対して『必要ない』と、一帖以外を切り捨てる冒涜を働いた罪悪感は持ち合わせていない様子に、日番谷は眩暈すら覚えた。

「必要ねぇって…」

 尸魂界で最も貴重な部類に入るだろう書物を綴じ部を掴んでヒラヒラと軽く扱う副官を咎めても無駄だろうな、という諦めが日番谷を覆い潰す。

「あたし、もともと源氏物語みたいな古典は好きじゃないし、『紫の上』が源氏と出てくる場面以外、読むつもりなんて全然ありませんもーん」

 思わず己の耳を疑いたくなる言葉の羅列に、日番谷は絶句した。

「……は?」

 乱菊は一旦自分の机に戻ると、書物と一緒に置いてあった数枚の紙を持って意気揚々と見せびらかした。

「せっかく初めて逢った時より小さい子供の姿で戻って来たんですから、今度こそあたしの手で思い通りのギンに育てようか、と思いまして」

 隊長の執務机の前を行ったり来たりしながら得意気に腰に手をあてて語る副官に、それは無駄だから止めた方が良いと忠告した方が良いのだろうか、という囁きが日番谷の耳裏で響いたが、ここは断固として無視した。あのチビ狐が乱菊の思い通りに育つことは元より、眼前の副官の途方もない企みが出だしから躓くことは明白だからだ。

(自分等が似てるっつー自覚がさらさら無ぇし)

 大半を占める事務仕事に関して怠惰と手抜きをモットーにしている副官を矯正しよう、と悪戦苦闘していた昔の自分が、今はとても遠く懐かしい。蒸発した大量の未処理案件が気にならない訳ではないが、そのうち三番隊か九番隊から完成品が届くだろう、と楽観ではなく確信に近い予測を日番谷は立てている。

「…松本、訊いておきたいんだが…お前、今さら自分の思い通りの市丸を作ってどうしたいんだ?」

 九番隊の檜佐木に信を置いていないのではなく、三番隊から仕上げられてくる書類が完璧すぎる…そう、恐ろしいほどに完璧なのだ。それ以外でも状況判断能力、鬼道、剣の腕については言うまでもない。要するに死神としては一流。言動を含めて性格には非常に難があるが、それは護廷では上へ行くほど顕著なのが常識だ。その護廷で隊長職の一を務める日番谷としては、仔狐が『松本化』されては困る。確認しなければならない項目を、頭の中で一つひとつ吟味していく。

「思い通りのギンっていうのは、ちょっと語弊がありますかねぇ?」

 語弊があるのではなく、そもそも無謀なのだと声高に言えればどれだけ楽で気分が晴れるかしれない。だが、こういう場合の乱菊が他人の忠告に耳を貸さないことも、日番谷は経験上知っている。

「語弊、とは何でしょうか、松本さん?」

 すっかり冷めてしまった茶を捨てて淹れ直した湯呑み片手に、すっかり板についた諦め口調が零れる。

「『思い通りのギン』っていうより、『あたし好みの男』に育てたいなって」

 光源氏が紫の上を藤壺宮そっくりに育てようとした、いわゆる『紫の上・市丸バージョン』を敢行しようと言いたいらしい。

「自分好みの男に育てること、現世では『紫の上カスタマイズ』って呼ぶらしいですよ?知ってましたか、隊長?」

 日番谷は手にしていた湯呑みがスローモーションで滑り落ていく様子を茫然と見ていた。床に当たって割れる音がやけに遠くから響いたような気がしたが、それも悪い夢の一幕として片付けた。



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