風日祈宮
□SSAS〜After School
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* * *
二年生担当の島のデスクで、乱菊は採点していた答案から視線を上げた。窓の外は明るい。メジャーどころしかない運動部の掛け声が聴こえてくる。
「高校総体も甲子園も、ウチには関係ないですからね」
隣で翌日の資料をそろえていた伊勢が、やはり同じように窓に視線を送っていた。進学校の部活は、あくまで趣味の領域から出ない。乱菊は伊勢が担当している近代文学研究部の副顧問をしているが、実情は帰宅部。
「でも、あの音を聞くと『あぁ夏なんだな』って思いますね」
カキーンと、金属バット音が小気味良く響く。どんより重い梅雨空を掻き分けてくれそうな打撃音。
「そういえば、実習生の中に名前があったような気がしたんですけど、同姓同名ですよね?」
「誰と?」
答える乱菊の声が普段より低くなる。
「……またケンカしたんですね」
やれやれ、と溜め息を吐いて伊勢は肩を竦めた。わかりやすすぎる。そして喧嘩になりやすすぎる。今回の喧嘩の原因を、乱菊は聞いてほしいのかどうか。伊勢は乱菊の反応を待った。
「そんな相手、いないわ」
「また強がって……」
並びの席で互いに窓を向いたまま、目的語のない短い会話を交わす。
「別に強がってるとか、そんなんじゃないわ。ただ、今さら教育実習なんて必要ないでしょって言ってやっただけ」
「……はいぃ? やっぱり市丸君なんですか? だって確か司法試験に受かったって」
だから乱菊も彼は卒業したら法曹界に進むものと思っていた。なのに、四年生になったら国Tを受けるから、まだ試験は続くと言った。乱菊は呆れた。それでも進路は本人が決めるもの――
「あんな世の中ナメてるヤツ知らないわッ!」
採点用の赤ペンが真っ二つに折れ、手がインクの赤に染まる。まるでそのペンで人を刺してきたような形相の同僚を、伊勢は恐れおののきながら眺めるしかなかった。
乱菊がこの高校に赴任してから、丸五年が過ぎていた。
* * *
赤ペンを握り折った日の前日。
「はぁぁ? なに考えてんのよ!?」
乱菊の手から、作ったばかりの水割りのグラスが落ちた。キッチンから投げられた布巾を反射的に投げ返して怒鳴る。
「国Tの一次試験、受かったんじゃなかったの?」
「うん。でも乱菊んとこの教育実習と二次が被ったんやもん」
投げ返された布巾と肴を載せた盆を持って、銀髪の青年が乱菊の正面で胡坐をかく。
高校二年のとき、乱菊に二度目のプロポーズした翌日から、ギンは地味なカツラと伊達メガネをやめた。真面目に登校するようにもなった。学校ではお互い全くの無関心・無関係を装いつつ、週末はどちらかの部屋で過ごすようになった。
三年進級時は、ぶっちぎりで一組の一席。しかし、どれだけ優秀でもギンは生徒。不正を疑われないよう、さすがにテスト期間は逢わなかったが、それ以外の休日は、一緒にご飯を作って乱菊は酌してもらって、お喋りして寛いで。長期休暇にはお泊りもした。『結婚を前提にしたお付き合い』というより、ママゴトのような温くても楽しい一年だった。
教師連の期待に見事に応えたギンが難関大学の法学部に進学しても、二人の関係は続いた。ただ、少し会話が減って、乱菊は参考資料や教科書を、ギンは法学書を読む時間が増えた。
理由が判明したのは、ギンが三年生の秋。急に逢いたいと連絡をもらった乱菊が急いで用意した誕生日プレゼントを持って駆け付けたら、顔を見たとたんに司法試験に合格したと打ち明けられた。
『資格とっとけば、食うのに困らせんで済むかなぁ、て』
三度目にしてようやく現実味のあるプロポーズをしたときのギンは珍しく照れていて、乱菊は今でも大事に胸の中にとってある。
「てっきり弁護士か裁判官になると思ってたのに」
検事という道もあるが選ぶのは修習が終わってから、と告げたギンは、乱菊の手、テーブル、床を順番に拭き終えると、作り直した水割りを乱菊に手渡した。
「中央と地方を行ったり来たりせなあかんのは知ってたから、別に受からんでもよかったんやけど」
乱菊の勤め先=ギンの母校。事前に実習を申し込んだと乱菊に知らせてしまったら、もともと少ない受け入れ枠に入れなかったときガッカリさせてしまうではないか、と乱菊の眼を覗き込む。
反論したくても何も浮かばなかったから、乱菊は素直に認めた。
「そうね。たかが二週間でも、毎日あんたの姿が見られるなら嬉しいわ。三年前に戻ったみたいで」
長身痩躯の銀髪を見掛けるたびにドキドキしていた日々を思い出す。帰れば先に部屋で待っていてくれるとわかっていても、見付けると得した気分になれた連休前の午後とか……
「なぁにヤラしいこと考えとんの?」
「べっ、別に何も考え……ッ!」
「ん?」
「……考えてた……けど、ちょっとだけだもん……」
だんだん声が小さくなって、最後には俯いてしまった乱菊を眺めながら、ギンはウォッカ・レモンのグラスに口をつける。しばらく様子を見ていたが、乱菊が顔を上げる気配はない。
僅かに覗く耳や首筋が真っ赤に染まっている。ギンはこみ上げる笑いを必死にかみ殺した。
「ボク、ものすごいえっちな気分になって困っとるんですけど、なんとかしてくれません、松本センセ?」
あげた視線の先では、ギンが壁に凭れて両膝を立てていた。片膝に着いた腕で頬杖を、もう片方の手は、グラスの中で浮き沈みする氷で遊びながら、乱菊の返事を待っている。口許には余裕のクスクス笑い。とても困っているようには映らない。
「あ、あんまりネチっこちのは駄目だからねっ!」
明日も授業がある。腰砕けで欠勤なんて格好悪すぎる。
「ほんま我侭なんは治らへんなぁ、松本センセ?」
おいでと伸ばされて飛び込んだ腕の中は、四年前よりずっと広く大きく暖かかった。
* * *