風日祈宮

□dal segno/受験篇
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 * *


 数枚のビラと数冊のパンフレットを抱えて、乱菊はギンの部屋のドアを開けた。

「何回も頼んだん憶えてへんかもしれんけど、入るときはノック、な?」

「ギ〜ン〜……」

 振り返らなくても、声でわかった。乱菊は泣いている。それもグズグズに。鼻水も垂れているかもしれない。ギンはティッシュの箱を手に立ち上がった。

 部屋の入り口に、乱菊がペタリと座り込む。と同時に、行平鍋が飛んできた。

「乱ちゃん泣かせはったから、晩ご飯抜きや言いましたな!?」

 中身が空で助かった……、とりあえず飯を抜かれると辛いので、ギンは母親に言い訳したいのをグッと堪えた。鍋を持ったまま、泣きじゃくる乱菊の前で胡坐をかいた。

「ほんま、どないしたん?」

 答えは乱菊自身が抱えてきた。細心の注意を払って、ギンは器用に紙だけを抜き取る。

「……学校案内? なんで今ごろ?」

 三年生に進級してすぐ、二人は同じ高校名を書いて進路希望を提出した。今の時期ならもう少し上を目指すべきだと呼び出されて指導されたくらい、余裕のある選択をした。高校でも一緒にいたかったから、模試や通知表の数字と睨めっこして、今の成績をキープすれば受かる学校に決めた。

 乱菊を避けるように綺麗な放物線を描いて様々な調理器具が飛来するなか、ギンはそれほど多くない学校案内にざっと目を通してみた。

 圧倒的に私立が多い。

「制服が嫌やったん?」

『高校はお揃いのブレザーだね』と微笑まれたのは、幻だったのだろうか。痛む心を隠して、ギンは俯いてしまった乱菊の顔を覗き込む。

「着たい制服があったんやったら、言うてくれたらよかったのに」

「……違うの」

「ん?」

 顔を上げて真っ直ぐギンを見詰める乱菊の頬が、見る間に朱くなっていく。

「……ちゃうんじゃないかって」

「何? ごめん、聞こえんかった」

「買ってもらっても、すぐ着れなくなるんじゃないかって」

 乱菊の言いたいことがわからない。軽くパニックに陥りかけたギンの頭に、落し蓋がクリーンヒットした。おかげで冷静さを取り戻したギンは、今まで飛んできた調理器具を台所にすべて投げ返してから、乱菊に向き直った。

「ごめん、乱菊。もっかい言うて?」

「こないだの休み、お母さんと試着に行ったじゃない?」

 決めただけで受かったわけではなかったけれど、娘の晴れ姿を見たいと我が侭を言い出した母親に連れられて、乱菊は志望校の制服を試着しに行った。帰宅した母がセーラー服も似合っていたと夢見がちに話していたから、志望校以外の制服も着せられたらしい。

――おかんの着せ替え人形ちゃうっちゅうの。

 本当は羨ましいのに素直にそう言えないスケベな息子には、せっかく撮ってきた写真は見せてやらないと、いそいそ仏壇に報告に立っていってしまった。

「一番おっきなサイズでも、もうキツかったから」

「おっきな、って?……あ、」

 察したギンの顔が、あっという間に朱に染まる。

「止まればいいけど、大きくなり続けちゃったらって考えたら……」

 着たい制服が見付かったから志望校を変えたいのではなくて、すぐに着られなくなると困るから私服で通える学校にしたい。

 ようやく意味がわかった。そして、なぜ最初に自分なんかに相談を持ち掛けたのだとちょっと乱菊を恨んで、残りの大半を台所に向けた。

――こういうことは、母親の管轄やろがッ!

 普段あれだけ猫可愛がりしてスキンシップもしている乱菊の、身体の成長速度に気付かないほど馬鹿な親ではない。二人で楽しそうに下着を買いに出かけるくらいなのだから、正確な数字も本人から申告されているだろう。ただ問題があるとすれば、息子の目から見ても……

――乱菊と違て、おかんの胸は控えめやからな。

 胸がキツくて苦しいという感覚が想像・理解できないのかもしれない。そう考えれば辻褄が合うし、一番に相談しにくかった乱菊の気持ちもわかる。

 しかし、乱菊は二年生の間に二度、三年に進級したときにも制服(上着のみ)を新調している。泣きつかれるまで気付かなかった自分は高い棚に上がって、いい加減わかってやれ、とギンは内心で毒づいた。

「頑張って勉強するって言ったら、通わせてくれるかな?」

 受験するまでだけではなく、合格してからも、ずっと。

 面倒くさがりの乱菊の口から出たとは思えない言葉に、ギンは驚いた。そしてそれ以上に、目標を下げるのではなく上げた乱菊が偉いと思った。

「えぇて言うと思う。特にオヤジが喜ぶわ」

 ピラっと乱菊の目の前に、一冊のパンフレットを差し出した。

 日本文化に憧れて来日し、京娘と恋に落ちてそのまま結婚した、大学教授のギンの父親。母ほどではない(と思いたい)が、乱菊には甘い。自分の勤め先の系列高校に進みたいと二人が告げれば父がどんな反応を返すか、ギンでなくても容易に想像できる。

「今夜、一緒に頼んでみよ。言うだけやったらタダやし」

「じゃ、さっそく勉強しなきゃね!」

 時間が惜しいと勢いよく立ち上がった乱菊の後頭部に、三往復目に突入した飛来物がクリーンヒットした。倒れこんでくる乱菊を反射的に受け止めたギンの視界は救急箱を抱えて駆け寄ってくる母の姿、聴覚は父が玄関ドアを開く音を捉えた。


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