風日祈宮

□dal segno/ライオンハート
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 * *


「市丸さん、この週末、お付き合いいただけますか」

 年末年始のアルコール・ラッシュが一段落して一カ月と少し。春の異動・新入社員歓迎会シーズンまでまだ間はあるし、勤め人である以上、この手の付き合いは断りづらい。比較的大きな企画が一段落したこともあって、リーダーだったギンが誘われるのは当然の成り行きだった。

「飲み会か……ちょっと予定わからへんから、返事は明日でええかな?」

 帰り際、ギンは同じプロジェクトでサブを務めてくれていた男性社員に予定を訊かれた。ギンとて部下は可愛いし本当にお疲れ様と感謝しているから、ちょろっとだけでも顔を出して労ってやりたい。しかし。

『さりげなく「これで飲んでおいで」ってお金を出してくれる上司って格好良いわよね』

 いつだったか、ふと乱菊の洩らした一言がギンの鼓膜に蘇ってきた。あのあとギンはしばらく悩んだ。顔は出さずに足しになるくらいの金額を渡してやるのがいいのか。顔を出したうえで、さりげなく余分に払うほうがいいのか。すぐに答えは出ないし、彼女の上司になれるわけでもないので、考えるのをやめてしまった。

「それって、都合がついたら出てもらえるって期待していいんですよね!?」

 この出席してほしそうな口ぶりも、実は社交辞令なのではないか。いや、と内心ですぐ否定する。小芝居をされるほど、ウザ嫌われてはいないはずだった。今までも気を遣わせるようなヘマをした憶えはないし、今回だって二次会に誘われても付き合う気は、更々ない。

――二次会、か。懐かしいなぁ。

 酔っ払いどもに絡まれて無理やり連行された時にしか、二次会以降には出席しなくなった。雰囲気も記憶の彼方。それでも微かに思い出せるのは……

「無礼講とか、」

 楽しかったな、と続くはずだった言葉は、「じゃあ、少しぐらい騒いでも構わない店を探して押さえておきますねっ!」という元気のいい捨て科白にかき消された。

「まだ行くとは言うてへん……けど……ま、ええか」

 面白い悪戯を思い付いたギンは、企みが成功した暁には気前のいい太っ腹な上司になってやってもいい気になっていた。


 * *


 風呂上がり、肌の手入れに余念がない乱菊を、ギンは背後から鏡越しに覗き込んだ。肩に手を置くと、凝った感触がする。軽く揉むとうっとり目を細める様は、昔から変わらない。

「それ、ボクにも教えてくれへん?」

「なあに? ようやく理解してくれたの?」

 男でも女でも身だしなみには気を配るべきだと、乱菊は以前からメンズメイクを勧めていた。綺麗な肌なのに勿体ないと妬み半分で乱菊に頬を抓られても、ギンは面倒だからと断りつづけてきた。そんなギンの突然な方針転換にもかかわらず、乱菊は手放しで歓迎した。

「ちょっと待っててね。もうすぐ終わるから」

 乱菊はドレッサーの正面をギンに譲って座らせた。後ろから化粧水の瓶に手を伸ばす。男の肌にも使えるのか使用上の注意を探してみたが、女性専用の文字は見当たらない。他の基礎化粧品も同じだった。

「ねぇギン。どうせならメイクもしてみない?」

「……今から?」

 肌の上を滑る乱菊の手の感触が心地よくて眠気を誘われたらしい、欠伸でくぐもったギンの返事が遅れる。

「んなわけないでしょ。明日の朝。身だしなみ程度のナチュラルなの。やってみようよ」

「んー」

 ぐらぐら揺れ始めた頭が胸の谷間で固定できたことを確認すると、乱菊はまだ乾ききっていない銀色の髪を指で梳く。

「おっきな仕事が一段落したって言ってたもんね。お疲れ様」

 社内で遠目に見かけても隙のない男が、夢の世界へ片足突っ込んだ状態で脱力した体を凭れさせている。眠りを預けてもらえるのは無条件で嬉しい……そこで乱菊は我に返った。鏡に映る緩んだ自分の顔を一睨みして、口許を引き締める。

「お願い。自分の足でベッドまで行って。運べないから」

 うーだのあーだの、意味を成さない呻き声を漏らしながらフラフラするギンに肩を貸しつつ、このくらいでは日頃の恩は返しきれないな、と苦笑を零した。



 翌朝。

「見られとる気がする」

 混み合う電車の中、いつもは乱菊を守るようにさりげなく抱き寄せて飄々としているギンが、今日は微妙に俯き加減で呟いた。

「そう? まぁ、見慣れたあたしにも、今日は三割増しイケメンに見えるから、気のせいじゃないかもしれないけど」

 普段より少し肌の色がよく見える程度の薄塗りファンデーションに、整えた眉の下の目はアイラインを引いただけ。要望通りの軽い仕上がりにもかかわらず、初めてのメイクにギンは落ち着きを失っていた。

「薄皮かぶっとるみたいな感覚や」

 帰ったらすぐ脱皮したい、と頬を撫でている。

「メイク落としのこと? 斬新で面白い表現するのね」

 乱菊としては、もっと時間をかけてバッチリ男前に仕上げたかった。それでも本人の希望するナチュラルメイクに仕上げたのは、手間がかかって面倒だと言われて一回きりになってしまうのが嫌だったから。ギンには、いつも、いつまでも恰好良くいてほしい。

 乱れていない襟元を直す振りで手を伸ばして、耳元に囁く。

「今朝は一段とイイ男よ、ギン。惚れなおしちゃった」

「そうかぁ?」

 だらしなく緩んだ表情さえ割増しで恰好良く映るのだから不思議なものだと、施した乱菊は自分の腕前を自賛した。

「……しまった、忘れてたわ」

「どないしたん?」

「キスマーク。つければよかった」

 いくつでもマーキングできるだけの時間はあったのに、安心しきった寝顔を堪能していて、綺麗さっぱり忘れていた。男女問わず部下からモテる男に魔除けも持たせずに、自分の目の届かないところに放置しておきたくない。

「あ、でも、今日はクライアントのところに行くんだっけ?」

「いや。向こうから出向いてくれることになっとる」

 同じ社屋にいるのなら、様子を窺いに行く機会もあるだろう。その時の周囲の反応を参考に、今後の方針を立てるのもアリかもしれない、と乱菊は心持ち緩んでいたネクタイを締め直してやった。


 * *
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