風日祈宮

□dal segno/通勤編
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「乱菊、もうちょいこっち」

 混み合った朝の電車。通勤ラッシュ。まだ眠いとぐずる乱菊を起こしていたギンも、一緒に普段より二本遅い電車に揺られていた。せっかくギンが一緒なのだから、と女性専用車両に乗ることを嫌がった乱菊は、その代償に、朝から疲れ切っているサラリーマンの波に揉まれている。

 緩いカーブに差しかかり、ヒールの乱菊がバランスを崩す。慌てて腰に手を回したのが、ギンの運のツキだった……朝から。

「この人、痴漢ですっ!」

 か細い、しかしキッパリ言い切る女性の声が混み合った車内に響く。どこだ誰だとざわめく車内。乱菊だけでも女性専用車両に乗せるべきだったかと悔やむギンの手が、見知らぬ男によって捻り上げられる。

「え? ボク?」

 途方に暮れる乱菊の正面からの眼差しを覗けば、周囲360度から責めるような視線が突き刺さる。

「いや、彼女はボクの……って」

 気の抜けた音とともにドアが開き、人波に揉まれるように手首を掴まれたままギンも外へ押し流されてしまった。正義の味方ぶった乗客の手を振り払って伸ばした乱菊の手が空を切る。

「ちょっ、アンタたち、ギンをどこへ……」

 本当に大丈夫か、朝から嫌な目に遭って大変だったと次々と掛けられる声に苦笑で応える乱菊の目の前で、やはり気の抜けた音をたててドアが閉まった。


 * *


 乱菊が次の駅で降りて引き返してきたとき、無実だと証明できたのか、ギンの姿はどこにもなかった。ラッシュのピークを過ぎたホームにも、駅員室にも、どこにもギンはいなかった。

 携帯も繋がらない。乱菊は不安になってきた。

「ギンってば、要領いいくせに保身なんて考えないから……」

 冤罪だと、妻を守っただけだと主張するだけで済む話。だが。

「そっか。あたしがいないから」

 被害者(仮)が同席しなくては、要領など関係ない。どうしてギンと引き離したのだと恨んだが、偽善者ぶった中年男も今は近くにいない。バッグで顔面を張り飛ばしてから鳩尾に肘をキメてあの電車に放置してきてしまった。

 たしかに乱菊は弱い。しかし、それはギンと比較しての話で、女性としては十分強い。下心ムンムン男はもちろん、これから下心をスクスク育てそうな男も自力で黙らせることができる。

 ギンの背に隠れて泣いていた幼い頃とは違う。

「あたしが守ってあげなきゃ」

 ヒールの音も高らかに、乱菊は最寄りの交番に向かって颯爽と歩きはじめた。


 * *


 交番は駅前にあった。朝日を浴びて見慣れた背中が項垂れている。

「何やってんのよ」

 どうして混雑した電車に乗る羽目になったのか、被害者(仮)が女性専用車両に乗っていたなかったのは何故か。こんな事態になった『そもそも』を説明して、乱菊に一本連絡を入れれば釈放されるのに、ギンはいまだに交番のパイプ椅子で小さくなっている。

「バッカじゃないの……ん?」

 乱菊の頭の中で、昨夜の会話がリアルによみがえる。

「そういえば、朝から会議だってボヤいてたっけ」

 本来ギンは面倒臭がり屋だ。回転の速さと頭脳と要領の良さを買われて昇進したが、抜ける手はとことん抜く主義。重役が顔をそろえる会議など、面倒の極みに違いない。できればサボリたい。が、立場上堂々とサボるわけにもいかない。

 痴漢の濡れ衣を着せられて困った、という言い訳を引っ提げて遅刻するつもりなのだ……それも会議が終わった頃を見計らって。でなければ、携帯の電源を落としたりしない。

 と呆れたのだが。

「お、乱菊。無事やったんやな?」

 いきなり振り向いた。それはそれは嬉しそうに。

「引っ張られた弾みで線路にケイタイ落ちて」

 すぐに駅員に拾ってもらったが、やはりというか壊れていた。自分の無実を証明する為ではなく無事を確認するために連絡を取らせてくれと頼んだが、悲しいかな電話帳機能に頼っていた所為で、最後の四ケタがどうしても思い出せない。もらった紙に、アレでもない、コレでもないと延々と数字を書き連ねていたら、乱菊が現れたのだ。

「……ほんと、ギンってば変なとこが抜けてんだから」

 この男は自分が一生懸けて守ってやらなければならない、と乱菊は眩しい朝日の中で覚悟を新たにしたのだった。



 * *

 たまには外ご飯もいいだろう。駅へ向かう帰り道の途中でばったり顔を合わせ、どちらともなく言い出して出掛けた先は、なぜか飲み屋。通い慣れた居酒屋だった。

「一日お疲れさん」

「ギンも、ね」

 軽くグラスを合わせると、さっそく運ばれてきた皿に箸を伸ばす。頼む品はいつもと変わらないから、いつの間にか互いの好物の皿が移動している。

「ところで、ケイタイどうなったの? いい加減古くなってたでしょ?」

 真ん中の皿を引き寄せていたギンが顔を上げ、ポケットを漁った。

「ああ、それな。昼休みにショップ行ってきた」

「……」

 乱菊でなければ気付けないくらい少し得意気な顔に、ようやく買い換えたのかと思いきや、手渡されたのは前とほとんど変わらない二つ折りの携帯電話。

「いい機会だから最新機種に変えたらよかったのに。店員さんにも勧められたんじゃないの?」

 乱菊の想像通り、しつこいくらい店員に最新機種を勧められた。しかし、ギンは頑として聞き入れなかった。その場で選び、データを移行してもらうに止めた。

「使い方覚えんの面倒やから」

「理由はそれだけ?」

「そんだけ」

「使い方くらい、あたしが教えてあげるのに」

 乱菊の尖らせた唇の隙間にネギマが差し込まれる。正面からは、これ以上この話題を続けるなと、微笑でコーティングされたプレッシャー。それでも気になるものは気になる。

 飲んでも食べてもジトーッと据えられて外れない視線に、さすがのギンも折れた。

「写メ、手元に置いときたくて、な」

「写メ?」

 たとえばコレと出された画像の、どこに機種変を拒むほどのレアリティがあるのか乱菊には理解できなかった。最寄駅構内の遠景。見慣れた風景を映し出すディスプレイから目線を上げ、首を傾げる。

「ここ見てみ」

 ズームされたのは立ち食いそば屋で、暖簾で上半身の隠れた客の足元をギンは指差した。

「このハイヒール。見覚えないとは言わさへんで?」

「……。ハイ、あります……って言うか! 普通はこれだけ離れてたら気付かないって!」

 とある朝。始業前に済ませておかなくてはならない用を起きてから思い出し、乱菊はギンより先に家を出た。しかし、腹は減っている。離れたホームに一軒のそば屋を見付けた乱菊は、ギリギリ間に合うと踏んで朝から疲れたサラリーマンに混ざってかけそばを注文し、書類の詰まった袋を足に挟んで流し込んだ……一番知られたくない相手に決定的瞬間を押さえられていたとも気付かずに。

「ま、愛のチカラやな」

「そっか、愛かぁ……じゃなくて、ホントなんで気付いたの?」

「オッサンに混ざって朝ソバとか、えらい豪気な子がおるなぁて見てみたら乱菊やった、ってだけやからなぁ」

 乱菊はギンの表情を窺うように覗き込んだ。怒っていなかった。反応を面白がっていただけらしい。乾いた溜息をひとつ落とし、ギンの空になっていたグラスにビールを注いだ。

「女らしくなくて悪かったわね」

「謝らんでもええって」

 はじめから期待していないから、と笑いながら、ギンは新しい画像を出して見せた。

「昼に出掛けた時に見付けたんや」

 青空に弧を描く鳥のシルエット。薄く刷いた雲を除けば、他には何も映っていない。

「……綺麗」

「やろ?」

 今の乱菊の待ち受け画像は、ギンが道端で撮影した綿毛のタンポポだった。その前はかなり長い間、湯気で霞んだ屋台のおでん鍋になっていた。空き缶がゴミ箱の淵に当たって弾かれた瞬間だったこともある。どれもギンが撮影したものだ。

 下らないものも綺麗なものも含め、乱菊が気に入った沢山の画像が、今もギンの携帯に保存されている。

「それ、ちょうだい」

「ん」

 空の画と一緒に、なぜかそば屋の画像も送られてきた。

「送ってもらわなくっても、もう行かないってば!」

「そうかぁ?」

 乱菊の振り上げた拳に反応して寄ってきた店員に追加で何品か注文したあと、ギンは片肘を着いて身を乗り出した。

「行くなとは言わへん。ただ、物を足に挟むのだけは止めてぇな?」

 その辺のオッサンよりオッサン平均値が高すぎるからと小声で囁かれ、乱菊は返す言葉もなく項垂れた。


 * *
2015.6.12
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