風日祈宮
□dal segno/買物篇
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駅前で酔っ払いが衆目を集めていた。座り込んでとぐろを巻いているからである。かなりの美女なのだが、近寄る男は皆無。誰もが遠巻きに様子を窺う中、一人の男が躊躇いのない足取りで正面まで進み、あろうことか腕を組んで美女を見下ろし、深々と溜息を吐いた。
「こないなとこ長居しとったら風邪ひくで?」
「……うっさい…」
「なぁ、て」
声を掛けた勇者にギャラリーが湧く。彼がフラれたら次は自分にチャンスが回ってくるからだ。だが、男は簡単に引き下がらなかった。
「肩貸したるから」
「……あんたみたいなダサ男、知らない」
そうだそうだ、と囃したてる声にも男は動じない。よれよれで洗いざらしのジャージを脱ぐと、女の細い肩に羽織らせる。そして徐に女の腕を取って無理やり立たせようとする。
「ダサ男やろうがなんやろうが放っとける訳ないやろ。早う帰るで、乱菊」
「うっさい、あたしが迎えに来てって頼んだのはギンなの!」
「はいはい。ボクがそのギンやからなー。頭、大丈夫か〜?」
「うるさいうるさいっ!口喧しいギンなんて大っ嫌い!」
「……はいはい。大丈夫みたいやな」
座り込んだ際に脱げたらしいパンプスを拾い上げると、ギンは軽々と乱菊を背負った。首筋にかかる酒臭い息に眉を顰める。
「いっくら週末や言うたかて、羽目外しすぎ。飲み過ぎやで?」
「いーじゃない、別に。ちゃんと自分で二日酔いの薬だって買ってきたんだからっ」
「そういう問題と違うやろ…」
なんだ知り合いだったのか…、滅多にお目に掛かれない美女を口説こうと見物していた男たちの人波が崩れていく間を、ギンは悠々と通り抜けた。
「ほんま、こんだけの男がおって口説けんとは…。酔っ払っとっても乱菊は乱菊っちゅうことか」
酒臭い息が穏やかになった途端、寝息に取ってかわる。ギンが迎えに現れるまで気を張っていた証しだと思えば可愛いものだ。重みが一気に肩にかかるが全く気にならない。温かさが愛おしい。
「帰ったら風呂…入れる訳ないか」
灯りを点けてきた自宅で冷えていく夕食を思うと切なくなったが、それでも「迎えにきてくれ」と連絡が入るだけマシなのだ、とギンは落ちかけた乱菊を担ぎ直した。
「…ねぇ、」
「ん?」
相変わらず酒臭い息で、乱菊は鼻にかかった掠れ声でギンを呼んだ。ギンが何のお強請りだろうと身構える。
「今度の週末、買い物行きたい…」
急に何を言い出すのやら…。ギンは無言で拒絶を伝える。
「どうせ迎えに来てくれるなら、格好良いギンがいい…」
「……。」
学生時代のジャージだが、何度も洗ってあるだけあって肌触りも抜群で、今でも手放せない一着になっている。着替える暇がなかったのは、メールの最後に『五分以内に迎えに来なかったら真っ先に声をかけた男についていく』と脅しがあったから。本気ではないと知っていても焦る。
エレベーターを使わずに階段を何段も飛ばして駆け下り、律義に五分まで残り数秒で駅まで走れた自分が誇らしかった気分も台無しだ。
「良ぇやん、間に合うたんやから」
「…だけどね、…」
続く言葉を待っていたが、寝息しか聴こえてこない。どうやら完全に寝入ってしまったらしい。
「ま、良えか。帰るとこは分かっとるんやから」
玄関から乱菊が大声でギンを呼ぶ。
「まだ用意できないの、ギン!」
今日は休日二日目。初日は二日酔いで潰れていた乱菊も完全復活を遂げ、朝から乱菊のテンションは上がっていた。のだが、呼ばれたギンのテンションは底辺を彷徨いている。
「ほんまに行くん?面倒なんやけど」
乱菊の洋服を選びに行けば予算オーバーするし、ギンの私服ともなれば行く気さえ起らない。乱菊は毎回毎回ギンを宥めすかしたり脅したり、しなくて良い苦労をして連れ出していた。…そう、昔から。
「あんたねぇ…。いっつもそう言って、一緒に来なかった例なかったじゃない。いい加減に腹くくったら?」
当のギンは頭から被っていた布団を目許まで下げ、眉間に皺を刻んだ。本気で面倒がっている。
「んなもん、乱菊がテキトーに選んできてくれれば良ぇやん…」
いつものように七緒を誘ったらどうか、と再び布団と夢の中へ戻っていこうとする。乱菊は布団の端を掴んで、思い切り引っ張った。
「ったぁ…」
勢いよく転がって反対側に落ちたギンが情けない声で非難するが、乱菊は聞く耳を持たない。完璧な作り笑いを浮かべてリビングを指差した。
「はい、ちゃっちゃと顔洗ってから着替えてね」
駄々を捏ねるギンに粘られた挙げ句、七緒を呼び出して買い物に付き合ってもらった回数は数知れない。一緒に居てくれるならどんなギンでも構わないけれど、なるべく格好良くいて欲しいという乱菊の女心を、ギンは何年経っても理解しようとしない。
「今日はギンの私服だけ選びに行くの。ちゃーんと予算も守るから!だから急いでね」
昼までに買い物を済ませて、昼からは休日の残りをゆっくり過ごしたい。そんな乱菊に急きたてられ、ギンは渋々クローゼットから着替えを引っ張りだす。
途端に駄目出しされた。
「……あたしが選んどくから。ギンは顔洗ってきて」
気怠げな背中を見送ってから、乱菊はギンの選んだ服を指で摘まみ上げる。
「ほんっと、ギンってば拘らないにも程があるわよ…」
それは、先日のジャージの上下に中を有名スポーツメーカーのハイネックに替えただけのものだった。