風日祈宮

□dal segno/帰省篇
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 散歩がてら封切を楽しみにしていた映画館行きが有力プランに挙げられる、晴天の朝だった。涼しい時間帯に食べられるだけ食べておかなくては、と向かったダイニングテーブルに乱菊の書き置きを見付けたギンは絶句した。

『しばらく実家に帰ります』

「……実家、…実家、て…」

 いったい何をやらかしただろう、ギンはこの数日を振り返ってみた。乱菊を怒らせるようなことは…していない。派手な喧嘩も…していない筈だ。ちなみに彼女は表向き笑顔を作りながら腹の底を煮えたぎらせるタイプではない。どちらかといえば、感情表現は豊かな方に分類される。

 しかも、乱菊の『実家に帰る』は世間一般の帰省ではない。帰省先がギンの実家でもある以上、フラグが立つのはギンだ。あれは、結婚後一ヶ月くらい経った頃だっただろうか、部下の女の子たちからランチに誘われたギンが鼻の下を伸ばしていた、と言い掛かりを付けられた時である。その時も乱菊は実家に帰ると言い出して、本当に出て行った。

 殺されるかと思った……実の母親に、である。

 迎えに来いと呼び出されたから、ギンは最速の交通手段を使った。そうして取る物も取り敢えず帰ってみれば、玄関先で土産物の木刀を構えていた母親に追いかけられたのだ。あの日、町内を何周しただろう。夜空に儚く瞬く星を仰ぎながら、もう両親はギンの知る両親ではなくなった、ときっぱり諦めがついた。特に女の子を欲しがっていた母親は乱菊に甘く、ギンには容赦がない。女親とはそんなものだ、とギンの肩を叩いて慰めた父も、義理の娘であり息子の嫁でもある乱菊には極端に甘いのだ。

「連絡、した方が良ぇんやろか。それとも待っとれば、向こうから何か言うて……」

 連絡すると言っても、家の電話番号しかギンは知らない。教えられていないから仕方ないのだが、乱菊のようにメールで済ませられるなら済ませたいのも、また事実。

「…ボクの寿命、あと何日残っとるんやろ…」

 もう少し生きていたかったな…、ギンは窓から射し込む明るい陽射しに目を細めた。自首して出頭するか、逮捕状を持った誰かが来るのを待つかの違いであって、ギン自身の処遇には大差はない。今、ギンが乱菊を迎えに帰省すれば、四面楚歌は確定している。

「……出掛けよ」

 映画もショッピングも、隣に乱菊がいなくては面白くない。本来なら一週間で溜まった洗濯や掃除があるのだが、邪魔という名の手伝いをする彼女の不在がギンからヤル気を削いでいく。

「一人でおってもぐるぐる考えるだけやし」

 出来得るならば、マイナス思考は思い出だけで完結させたい。ギンは財布だけポケットに捻じ込むと、空腹を抱えたまま、がらんとした部屋を後にした。



 特に目的もなく街を歩いていると、随所で声を掛けられる。その都度、適当な態度で会釈っていたギンだが、それさえ次第に面倒で疲れていく。

「乱菊が横におったら、こないな目ぇ遭わんで済むのに…」

 長らく乱菊の指定席だった真横に並ぶ女性から、ギンは怒涛の勢いで質問攻めにされていた。何処に住んでいるのか、勤め先は、役職は、好きな食べ物は嫌いなものは…。根掘り葉掘りという表現がぴったり当てはまる。

「なんで、」

 ずっと疑問に抱いていたことを、ギンは口にした。

「独身かどうか訊かへんの?」

 そこそこ金を持っていて後腐れなく遊べそうな相手と映ったのだろう。そうギンは結論付け、歩道沿いのショウウィンドウに浮かぶ自分の姿に乾いた笑いを零した。いくら結婚指輪をしていなくても、人生を諦めたような疲れ切った表情に丸めた背中は、今から羽目を外して遊び回るようには見えない。

 ようやくギンの問いを理解した女性が、オウム返しで独身かどうか訊ねる。

「しとるよ。キミよかずっと美人な奥さんがおる」

 実家に帰ってしまったが…と続きは飲み込んで誤魔化した。その一瞬の間を読まれたらしい。休日に別行動を取るほど冷めた仲なのか、ならば少しぐらい遊んでも構わないだろう、と畳みかけてくる。

 ギンは自棄を通り越して、突き抜けた気分に陥った。ちらっとも考えなかった言葉が口を突く。

「キミにボクを満足させられるんか知らんけど、やれるもんならやってみ」

 得意気に腕を絡めてくる女性から視線を逸らし、これも勝手に居なくなった乱菊が悪いのだ、と独り言ちた。



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