風日祈宮

□嫁に来ないか
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 昼休憩の終了5分前に職場であるブティックに戻った乱菊は、店長から一枚の紙ナプキンを渡された。乱菊が選んだのは沈黙。

「……。」

 紙は紙でも、安食堂の何かの油が染み込んでいる紙ナプキン。どうしても狐に摘ままれた感が否めない。送り主は確かに狐に違いないが、乱菊のアパートに居候している仔狐ではない。その彼ならばこんな手の込んだ悪戯をせずともストレートに伝える筈だ、……少なくとも今は。

「松本さん、仕事辞めちゃうの?」

 店長が休みの日には臨時の責任者を勤めているとはいっても、乱菊の代わり等すぐに見付かるだろう。だが、店長の当面の不安よりも現在手にしている紙ナプキンに書かれた内容に、乱菊は張り手ツッコミを入れたい衝動を堪えるのに必死で返事が出てこない。

「………。」

 今すぐ破り捨てるか、書いた本人を追い掛けて問い詰めてしまいたい。今なら例の特徴的なおかっぱ頭で近くをフラフラ彷徨いているかもしれない。若しくは人目に付かない路地裏で本性に戻って、空中を優雅に跳んでいるか…

「これ持ってきた人、何か言ってませんでした?」

 途端に店長が表情と言葉を濁す。言い難い何かをやらかしたのか、表現に困るような言動だったのか…。どちらも当て嵌まる相手だから、乱菊も毎回対応に困っているのだが、今それを店長に愚痴ったところで何も始まらない。

 腕を組んで首を捻り一頻り唸ってから、訥々とした店長の説明が始まった。

 * *

 …カランカラカラ…

 ドア上部に取り付けてあるカウベルが、振動と吹き抜ける風を受けて爽やかに鳴り響いて入店者の来訪を告る。それと同時に、一昔も二昔も前の流行歌の鼻唄を口ずさみながら、女性物を扱うブティックには場違いな金髪おかっぱ頭が軽やかな足取りで店内に滑り込んできた。

「乱菊ちゃん…やのうて松本さん、おる?」

 昼の休憩に行ったばかりだから、早くても一時間は戻らないと告げれば、調子外れな鼻唄を垂れ流しつつ商品に難癖を付ける。

「こないヒラヒラしとって、隠さなアカンとこ隠せるんかい…俺らにみたいなんには嬉しい限りやけど」

 トルソーに着せてあったツーピースの裾を捲り、早口の大阪弁に載せてあからさまに溜息を吐く。

「松本さんに着せといた方が売れるん違う?中身付きの方が捲り甲斐あるし」

 何ともリアクションに困る客は冷やかしに違いないと判断した店長は、適当に相槌を打っておいて追い払う態度に変えた。

「えぇと、店長さん?松本さん帰ってきたら渡しといてくれへん?頭良いあの娘やったら見れば分かるやろから」

 何処からともなく取り出した一枚の紙ナプキンを店長に押し付けると、来た時と同様にカウベルとドアの隙間から風のように出ていってしまった。

 * *


『嫁に来るか?というか来てください』


「………。」

 あの、調子だけは良い狐頭領がこの日本の穀物事情をすべからく治めていて、商売繁盛の神様と崇め奉られている等と説明したところで、いったい誰が信じるだろう。事情を知っている乱菊にしても、心の一部が激しく否定しているのだ。彼の下を修行と称して追い出されてきた仔狐の方が、マスコット化されたとしても信憑性があるだろう。悪い存在ではない、と理性では理解が出来ても感情が裏切る。しかも、そんな人物からあろうことかプロポーズされてしまった…

 …のだろうか?

 乱菊は二日酔いの朝より酷い頭痛を覚えた。きっと狐頭領の独断に違いない。紙ナプキンを持ち帰って見せてやれば、あの仔狐はどんなリアクションを取ってくれるだろう。狭いアパートの中で地団駄を踏んで怒るだろうか?それとも、いつもの悪い冗談だろう、と笑って往なすだろうか。だが、と乱菊は宙を睨む。

 問い詰めに行ってくると出ていって、ゴタゴタに巻き込まれて帰って来ないのではなかろうか…?

 せっかく山登りして再びテイクアウトしてきた仔狐を、こんな質の悪い冗談で奪われては敵わない。唯一まともな会話が成立しそうな副頭領は狸ときている。乱菊は狐や狸と懇意になりたい訳でも、ましてや狐と親類になりたい訳でもない。気を遣わなくても良い仔狐と平々凡々な暮らしを送りたいだけなのだ。

 乱菊は店長に頭痛を理由に早上がりを申し出ると、すぐに裏通りにある『占いのメッカ』を目指した。

 にこやかな営業スマイルを浮かべて次の客を迎え入れたギンは、乱菊の姿を認めて肩の力を抜いた。

「こないな時間にどないしたん、乱菊?」

 すれ違い様に出ていった女性客は、同性の乱菊の目にも可愛らしく映るほど頬を赤らめていた。仰々しいベルベットのカーテンで設えられた薄暗い室内で、こんな仔狐相手に真しやかに恋愛相談が為されていたかと想像してしまったら、乱菊は笑うより呆れるしかない。

「さっきの子、この近くにある大手企業のOLさんね?あんた、何吹き込んだのよ?」

 あの浮かれ具合は尋常なレベルじゃなかったわよ、と仔狐の正面の椅子を引いて腰掛けた。別に何かを占って欲しい訳でも相談がある訳でもない。正規の料金を支払い、客を装って堂々と面会に来ているのだから乱菊に遠慮はない。たっぷり一時間は話せる。乱菊はショルダーバッグから、例の紙ナプキンを取り出してテーブルに置いた。

「…。」

 テーブルに顎を乗っけたくらいのサイズの仔狐の眉間に、深い皺が刻まれた。大振りな耳の先っぽがみるみるうちに垂れていく。仔狐は紙ナプキンとしばらく睨み合っていたが、おそるおそる手を伸ばし、端を摘まんで裏返してみたり臭いを嗅いでいる。不審物を発見した野生動物にそっくりだ、と乱菊は徹底観察に切り替えた。

「…頭領の匂いする」

 眉間の皺は一段と深く、耳は完全に垂れている。乱菊の視界には入らないが尻尾も同様だろう。

「それ…金髪おかっぱのお兄さんが店に現れて、さんざん茶化してから置いてったんだって」

 副頭領なら未だしも、どうして頭領がフラフラ出歩いているのだ、寿命も種族も全く違う人間と関わるな、が持論だった癖に、狐以外のメスに今更プロポーズしなくても遥か西に彼女が居る癖に…などとブツブツ文句を垂れ流している。乱菊はどうにも聞き捨てならない一節に噛み付いた。

「あんなタラシ風な頭領に彼女が居るの!?」

「頭領、タラシやないよ?…タラシでチャランポランなんは副頭領の方や…」

 別に頭領の肩を持つ訳ではないが、説明も疲れるし面倒だから帰ってからにしてくれないかと乱菊に提案した仔狐は、怪しげな黒いカーテンの奥に向かって早上がりを頼むと、早速荷物をまとめ始めた。

 * *

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