風日祈宮

□dal segno/出張篇
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 珍しく早朝に出勤した乱菊は、そっと上司の机の上に一枚の封書を置いた。

「事後承諾でご免なさいっ」

 手を合わせて頭を下げるも、口許からは赤い舌が覗いている。足元にはボストンバッグ。昨夜、ギンを拝み倒してまとめてもらった荷物である。

『ギンが出張の間、七緒とホテルで女子会やるから』

 一泊二日、女性限定のサービスがあるホテルに宿泊し、たくさん美味しいものを食べて飲んでお喋りするのだ、とギンには告げてある。そのギンは同じ日程で出張になっている。乱菊一人を置いていくのも、防犯防災の面で不安だったため、ギンは乱菊の提案に何の疑問も抱かずに同意した。

『じゃ、お仕事がんばってね』

 見送ったのは今朝。眠い目を擦って出掛けるギンの背中に手を振った後で、乱菊は急いで部屋に戻った。上司にバレる前に有休申請を出してトンズラしなくては、計画がチャラになってしまう。

 乱菊がギンと旅行と呼べるような遠出をしたのは、大学の卒業旅行と入社一年目に催された泊りがけの懇親会の二回しかない。普段の週末は買い物と家事で潰れるし、長期休暇は混み合うという理由から、二人揃って仲良く出無精になり果て、使っていない部屋を改装したホームシアターに引き籠ってしまう羽目になる。しかも新婚旅行にも行っていない。

 乱菊の職場では、ほとんど出張がない。入社後数年は出張が絶えなかったギンを乱菊が羨ましがったら、置いていかなければならない方の心痛を考えろ、と叱られた。ならば、いつかは有休を取ってギンと一緒に出掛け、気分だけでも出張したいと思ってきた。

 それも、ギンが昇進したら出張の機会が減って単なる夢物語になってしまった。なので、ただ旅行に行くだけでも良いのだが…

「一緒に休暇取るとバレちゃうのがねぇ…」

 部署が違っても、同じ日程で前もって有休を申請しておく度胸は乱菊にはない。ひとえにギンが妻帯者だと知られたくないからである。嫉妬深い自覚はあるが、女性社員からの人気がないギンは更に許せないのだから仕方がない。

「さぁてっと。じゃ、ギンに尾行がバレた時の言い訳を、」

 清掃員が慌ただしく用具を片付けている傍を通り抜け、乱菊は社屋から出た。普段より低い角度に見える朝陽に向かって微笑むと、乱菊はバッグを持つ手に力を籠める。たかが一泊、されど一泊。旅行には違いない。

「七緒に授けてもーらおっと」

 ギンに見付かるまでの口裏合わせの為に駅で待ち合わせた七緒の呆れ顔を思い浮かべ、乱菊はペロっと舌を出した。



 駅ビルの喫茶店で文庫を読んでいた七緒は、外からガラスを叩く乱菊に気付いて軽く頷いた。乱菊が来たら今日の化粧は気合が入っていて普段の数倍は輝いていると褒めた方がいいだろう、と本を閉じた。

 だが、当の乱菊はなかなか入店してこない。不思議に思った七緒が店員に断って外へ出ると、アスファルトに座り込んでバッグを漁っている乱菊を見付けた。

「……何してるんですか、乱菊さん」

「七緒ぉ〜…」

 情けない声で七緒を振り仰いだ乱菊は、ギンの予定や宿泊先を記したメモを忘れたと泣きついた。たっての願いが叶う嬉しさに、準備が疎かになっても仕方あるまい、と七緒は呆れずに乱菊を諭しはじめた。

「それなら私が持ってきてますし、向こうに着いたら真っ先に市丸君を探して驚かすつもりなんでしょう?乱菊さんが来たって知った市丸君が、宿は別なんて言う筈ないし。だったら市丸君の予定も宿泊先も要らないと思うんですけど」

 という訳で、と七緒はギンの初日のスケジュールだけを書き込んでおいたメモをバッグから取り出し、乱菊に見せてから微笑んだ。

「電車の時間まで打ち合わせするんでしょう?」

 早く店内に戻らなければ食い逃げだと通報されてしまう、と苦笑して乱菊を立たせた。客が増えてきて忙しそうにしている店員が、ちらちら様子を窺っているのが見える。

「うん、いっつも迷惑かけてご免ね。ありがと、七緒」

 ギンが乱菊を疑うことはないが、万が一の時の為に七緒は乱菊に合わせて家を早く出てきている。いつもは家事に費やしている時間を提供してもらっているのだ、という負目から乱菊は素直に礼を述べた。七緒は面食らう。

「急にどうしたんですか、気持ち悪い。私と乱菊さんの間に遠慮なんて要らないでしょう?」

 京楽には事情を説明して理解してもらってきたから大丈夫だ、と胸を叩く。いつも控えめな七緒が胸を叩いたことより、その言葉の方に乱菊は瞠目した。

「…え?京楽さん、このこと知ってるの?」

「そりゃ、話さないで出てきて疑われるのは嫌ですから」

 その時に「乱菊ちゃんにも可愛い所があるんだねぇ」と鼻の下を伸ばした京楽に、自分は可愛くないと言いたいのかと詰め寄って困らせたとは口が裂けても言わない。

「京楽さんが七緒を疑うなんて有り得ないでしょ。顔出す度に『僕の七緒ちゃんはねー』ってノロけるのも、京楽だからKYで仕方ないって噂まであるのよ」

「京楽だからKYって、何でですか?」

 京楽をローマ字表記しようと思ったらKYで始まるからだ、と説明した乱菊に、七緒はあからさまに嫌そうな顔をした。

「いいじゃない、七緒だって旦那様LOVEなんでしょ?」

 顔を真っ赤に染め、むきになって反論してくる七緒の頭を、乱菊は可愛い可愛いと笑って撫でまわした。


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