風日祈宮

□dal segno
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「今日の昼、あんたが腕組んでた女の子。あれ、誰?」

 夕飯の支度をしていたギンの背後に忍び寄った乱菊が一本調子の低い声で問うた。昼、昼と呟きながら記憶を遡っていたギンは、ようやく専務のご息女の存在を思い出した。

「あぁ、あれな。娘が会社遊びに来たから案内したってくれ、て専務に言われて…」

「鼻の下伸ばして…嫌らしい」

「はぁ?」

 乱菊は肩から提げていたバッグを振りまわしてギンを攻撃しはじめた。当然だが角が当たれば痛い。逃げるギンを乱菊が追い掛ける。既に夕食の何皿かが並んでいたテーブルの上へ、乱菊は緑色の用紙を叩き付けた。茶碗や箸、皿が跳ねて耳障りな音を立てた。薄い紙は乱菊の剣幕に破れそうに甲高い悲鳴を上げる。

「誤魔化そうったってそうはいかないんだから!どうせ専務から『うちの娘を嫁にもらってくれんかね?』とか言われたんでしょ!で、その気になったりしたんでしょ!?」

「その気、て?」

「専務のお嬢さんとイイ仲になれば?って言ってるの!良かったわね、昇進確定じゃない、部長の次は何?あらあ、もう常務とかすごーい!今じゃバツの数は色男の勲章だって言うし?」

 今度こそ本気で別れる、離婚だと息巻いて出ていく乱菊を見送って手を振り、ギンはテーブルの上の薄っぺらい紙を手に取った。乱菊が書かなければならないスペースどころか、全てが空欄なのはご愛嬌といったところか。

「いったい何枚持ったるいとんのやら…」

 隅を抓んで振ってみる。柔らかい灯りを反射する紙で照明の輪郭が透ける。こんな紙きれ一枚で縁が結べたり切れたりするのがギンには不思議でならない。

「…まぁ良ぇわ。腹減ったら帰ってくるやろ」

 残りの調理を済ませると、ギンは一人きりの食卓に着いた。手を合わせる。正面に並べた揃いの箸と茶碗が少々空しいが、それは彼女も同じだろうと割り切った。

「とにかくチェーンは開けといたらんとあかんな」

 夕飯の準備が出来ていると知っていて出ていったのだから、すぐに戻らなければ何処かで適当なものを買って食べるだろう。泊まる場所に拘らない彼女なら、カプセルでもビジネスでもホテルを見付けて雨風をしのぐ術はいくらでもある。問題は着替えだ。いくら乱菊でも下着から何もかも新品を買うだけの手持ちの余裕はない。ギンが出勤した後の隙を狙ってでも一度は着替えに戻らなければ、乱菊とて外出に差し支えが出るからだ。

「ご馳走様でした…って、作ったんボクやん」

 箸を置いたギンは一人分の茶を淹れた。揃いの湯呑も夫婦箸も、三年前に乱菊が買い求めてきたものだ。

「あの頃は可愛らしかったなぁ」

 いや、今も十分可愛いのだが、と慌てて言い足してから、ギンは「三年目の何やったっけ?」と誰もいない正面に訊いてみた。

「破局やったっけ?ほんでも、とうとうボクもバツ3昇格とか、ほんま凄いわ」

 ギンは乱菊の捨て台詞を思い出した。部署も階も違うと油断して乱菊に見られたのは迂闊だった、とギンは溜め息を吐く。乱菊以外の女性から向けられる好意に疎いギンだが、あからさまな専務の娘の態度には気付いたし、鬱陶しいと感じた。だから彼女にも専務にも自分は妻帯者だと説明した。乱菊の言うように進展する仲にはなり得ない。

 離婚歴が男の勲章だとしても、ギン自身あまり嬉しくない。気性の激しさに辟易することはあっても、幼い頃から一緒にいるのは乱菊しか考えられなかったし、それはこれからも変わらない。

「無事なら何でも良ぇわ、もう…」

 簡単に襲われるようなか弱い女ではないのだし、と達観するのも信頼の一つだと諦めが付くようになってしまった。ギンは頬杖を付いて正面の空席に話し掛ける。

「阿呆やなぁ、乱菊。あないな小娘、ボクが相手にする訳ないやん。キミが一番良う知っとるやろ?」

 手際良く氷を砕いてグラスを冷やし、ロックでウィスキーを呷った。喉を焼くアルコールの熱さとは裏腹に、頭と心が冷めていく。グラスを合わせる相手のいない寂しさがギンに押し寄せる。

「キミの呑みっぷりがあらへんと美味しないなぁ」

 長くても二、三日で戻ってくると分かっていても、寂しいものは寂しい。本人に打ち明ければ大笑いされるのがオチだから絶対に口には出さないが、一度くらい素直になってみても良いだろうか、と琥珀色の中に浮かぶ幻に相談してみる。

…あんたが寂しい?嘘は大得意だもんね。でも素直なギンは嫌いじゃないわよ?

「そらおおきに」

 少しだけ気が紛れたギンが何杯かグラスを重ねていると、負けず劣らずアルコールの入った酔っ払い…もとい乱菊が帰ってきた。

「ギ〜ン〜、空きっ腹にカクテル呑んだら気持ち悪くなっちゃったの…いつもの薬ちょうだぁい…」

 千鳥足で廊下を右に左に壁へ派手にぶつかって近付いてくる乱菊の真っ青な顔色に、ギンは慌てて腰を上げる。サイドボードから乱菊御用達の胃腸薬を取り出した。

「全く…何処で呑んだくれとったん…」

 テーブルまで辿り着いて突っ伏した乱菊の腕の下で、先ほどの離婚届けが無残な皺を刻む。ギンが急いで持ってきた水の滴るコップによって滲みができ、その場で眠りこけた乱菊に破られた届け出用紙は、一文字も書き込まれないままギンの手でゴミ箱に捨てられた。

「すぐに次のが出てくるんやろけど、乱菊やったら忘れとる可能性高いしな…」

 手近にあったウェットティッシュで簡単に化粧を落としてやる。よいしょ、と掛け声をかけて乱菊を担ぐと、ギンは安心して伸びきっている酔っ払いを寝室に運んだ。

「今さら呑んだくれた理由は訊かんけど、……ツケたんやったら店の名前くらい覚えとってな、後生やから」



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