風日祈宮

□Melty love
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 年末も近付いたある日の夕方、疲れきって帰宅した乱菊はポストに一枚の絵葉書を見付けた。下部に愛しい名前を見付けた乱菊の頬が弛む。煌びやかなイルミネーションに彩られたクリスマスツリーが夜空に浮かび上がっている。

「綺麗…」

 勤め先でも行事として組み込まれていたが、自分が楽しむイベントとして捉えたことは一度もない。忙しいからである。買い物に行った時に模様替えされている店内で独特の音楽が流れていれば、あぁ、もうクリスマスなのか、と実感するくらいだ。去年までは《松本先生》宛てにクリスマスカードを大量にもらっていたし、乱菊個人宛てのプレゼントもあった。それは酒で、送り主にも見当はついている。ツーリングチームの誰かさんだ。今年は手土産として持参しそうな予感がしているが、隣の住人も巻き込めば、それなりに楽しく過ごせるだろう…

「ん?」

 目に留まったのは、絵葉書の隅の小さな走り書き。僅かなローマ字と数字。暗号のように見えなくもないが、何を意味するのか乱菊には分からない。調べようにも心当たりがないので、乱菊は絵葉書を胸元に挟んでベランダに出た。軽々と柵を乗り越える。

「帰ってきてるかしら?」

 着地した時は暗かった足元が、部屋からの照明に照らされる。隣の住人は帰宅したばかりらしい。グッドタイミングと独り言ちて、乱菊はサッシを叩いた。

「ねぇ、ちょっと良い?」

 振り向いた顔は、明らかに呆れの色を浮かべている。ガラス越しに「またですか」と動く口が見える。鍵を開けてもらって室内へ入った乱菊に、イヅルは非難の眼差しを送った。

「ベランダ乗り越える方が手間でしょうに、全く…」

「それより、これ。こんなの届いたんだけど」

 投げやりに「綺麗なカードですね、良かったじゃないですか。市丸さんにもそんな甲斐性あったんですねぇ」と絵葉書を眇めたイヅルがキャビネットからカップを出してインスタントのコーヒーを淹れた。乱菊にも勧める。

「ねぇ、飾ってあったグラス、どうしたの?」

 キャビネット前面に飾られていた、イヅル秘蔵の切り子細工のグラスがなくなっているのだ。他にも硝子製のグラスは一つも見当たらない。不思議に思った乱菊が何気なく問うと、イヅルは苦い表情を浮かべた。

「先輩が良からぬことに使おうとしたから片付けたんです…」

 隠しても仕方ないか、と肩を竦めたイヅルは、グラスを壁に当てる真似をしてみせる。本当に聞こえるのかどうかはさておき、何とかして隣の物音を盗み聞きしようとしていたのだ、と修兵の悪行を暴露した。釈然としないものの、イヅルの部屋にグラスがない理由は分かった。

「新婚早々、旦那に置いてかれて泣いてるに違いないから慰めに行くんだ、とか馬鹿なこと言い出したもんで、しばらく立ち入り禁止にしたんです」

 後輩が後輩を構う姿を見かけなくなった理由も分かった。やはり釈然としないが。

「ふうん、そう…じゃなくて、此処。なんか書いてあるんだけど、意味が分からないのよ。あんたなら何か知ってるんじゃないかと思って」

 医師同士か病院内で使われる暗号か何かではないのかと訊ねる乱菊に、イヅルは見覚えがないと首を振る。

「処方箋でもないし、…何だろう?病院じゃなくて、どこかで見たことあるような、ないような…」

 滅多に見る機会がないのだろう、イヅルには珍しく思い出せなくて苛々している。横から一緒に覗いている乱菊は、不可解な文字列の解読を丸投げした時点で、絵葉書に見入るだけで良くなってすっきりしてしまっている。この街に彼がいるのだと思うと、胸が熱くなる。

「あぁーっ!思い出した!」

「な、何よ、急に大声出して。びっくりするじゃない」

「これ!国内線と同じ原理なら、飛行機の便名です!」

 年末年始の予定は決まっていない、と知らされたのは秋の終わり頃、乱菊の誕生日プレゼントに添えられたメッセージカードからだった。今回のようにどうにも文面に人柄が表れるらしく、必要最低限の内容しか書かれていない手紙は報告書と大差ない。その中でも今度の絵葉書は群を抜いてタチが悪かった。

「ちょっと待ってて下さいね、今すぐ調べますから。えーっと、エアメールがだいたい一週間で届くとして、市丸さんの行動パターンから…」

…ギンが帰ってくる!

 乱菊の学年末とギンの退職後の隙を縫って挙げた早春の結婚式から一週間、様々な手続きや乱菊の引っ越しを済ませた彼は、学士取得の為に遠い空の下へ旅立っていった。あれから一度も逢っていない。そのギンが絵葉書の街から帰ってくる。何日滞在できるのかは分からない。とんぼ帰りかもしれないが、逢えるのだと思うだけで乱菊の胸は高鳴った。


向こうの病院と連絡が取れる時間帯になったら大学病院経由で問い合わせておく、と手帳に書き込んでいたイヅルの部屋から『市丸』の表札がかかった部屋へ戻った乱菊は、本来なら二人暮らしの筈の室内を見渡して愕然とした。

「散らかってる、なんて可愛らしいレベルじゃないわ、これは…」

 一面が書棚で埋まっている寝室は、床の服を片付ければ何とかなる。問題はリビングだ。散らかした本人でさえ、どこから手を付ければ良いのか呆然とする惨状に、乱菊は入ってきたばかりの玄関を振り返った。片付けが間に合わなければ、せっかく帰国してきたギンをホテル住まいにさせてしまう。

「笑って許して…くれないかなぁ…」

 どれだけ散らかしても仕事に一段落が着いたら片付ける、忙しくて時間がなくても週に一度は部屋を掃除する、と出国前のギンに一方的な約束を取り付けたのだ。人には向き不向きがあるのだから無理しなくて良い、と言ってくれたのに、意地を張ったのは乱菊だ。

 おりしも明日は休日、朝から晩まで片付けに費やせば、見苦しくない程度までリカバリ出来る筈だ、ともう一度リビングを見渡して、もっと深い溜め息が零れ出た。

「あたしが綺麗にリカバリする時間ないじゃない…」

 サイドボード上に飾った挙式の記念写真が目に入ったのだ。今の乱菊はクリスマス会と二学期の終了に向けた準備に追われ、自慢だった肌も髪も大荒れに荒れている。

「なんでもっと早めに連絡くれないのよ…」

 綺麗に出迎えたいのに出来ないとなると、行き場のない怒りの矛先は逢いたくて堪らなかった筈の相手へ向かう。ギンは乱菊の肌が荒れていようが髪が傷んでいようが、元気ならば気にしないだろう。分かっていても許せないのが女心。いつでも自分の下へ帰りたいと切望してもらえる良い女でいたいのだ。

『阿呆やなぁ、他の女に目移りする訳ないやん』などという気の利いた睦言は、乱菊の夢の中の幻しか言ってくれない。自分より見事な金髪碧眼の美女が街中に溢れ返っていると知ったとき、乱菊の自信は容易く崩れ落ちた。「絶対に浮気しないでね」と可愛らしい言葉の一つでも言えれば、こんな苦労はしないのに…、と床に蹲って頭を抱える。

「誰だったっけ、似た者同士って言ってたの」

 意地っ張りの頑固さ加減が本当によく似ている、と溜め息を吐いて肩を落とした…、そう、先ほど顔を合わせたばかりの隣の住人だ。乱菊にしてみれば、彼も相当の意地っ張りだ。ギンが心配だろうに、乱菊に遠慮して電話はおろか手紙の一通も出そうとしない。しかも…

「いい加減『お義姉さん』呼びに慣れてくれても良い頃なのに」

 気恥ずかしいのだと言葉を濁す裏に、失恋した修兵への思い遣りもあるのだろう。松本と言い掛ける度に『ぴよぴよ口の刑』に処してきたが、一向に改善される気配はみられない。

「ま、良いわ。とにかく明日は起きたら片付け!一日かけて元通りにする!美容院とかはそれから!」

即断即決がモットーの乱菊は、全ては明日からと決めて、簡単に腹ごなしを済ませると一人きりに慣れた布団へ潜り込んだ。



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