風日祈宮

□SS〜スクールスキャンダル
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「さて、と。採点採…て…」

 乱菊は回収された答案を手に固まった。持っていた赤ペンが右手からすり抜け、床に硬質な音を響かせて転がる。

「誰よ、こんなイタズラ…」


『必ず幸せにします 結婚して下さい』


 解答欄に一つとして答えが見付けられない代わりに、蛍光ペンで大きな文字が15個並んでいる。ひっくり返してみても、窓からの陽光に透かしてみても、でかでかと書かれた文字以外にテストの答えはない。

「どいつよ…?」

 あまりのインパクトに席次と名前を確認するのを忘れていたことを思い出し、乱菊は机に放り投げた答案用紙の上部に視線を滑らせる。


 2組8席 市丸ギン


 乱菊が春から赴任したこの高校は、入学時や進級時の成績順に一年間の組と席次が決まる、特異なシステムを採用している。ちなみに『生徒の個性を尊重する』という少人数学級の表向きの理由の裏では、より効率的に有名大学への高進学率を確保する為のカリキュラムを実践しやすい環境を隠し持っていた。

 最初に学年主任から説明を受けた時、乱菊は新設私立ならではの方針だと呆れたものだ。呆れはしても郷に入ったのだから従うしかあるまい、と腹を括った数ヵ月前が懐かしい。何よりも目の前の答案を見る前に戻れるものなら、乱菊は何を犠牲にしてでも戻りたくて堪らなくなっていた。

「2組の8席だったら大したことないじゃない…」

 乱菊とて教育者の端くれだ。テストの点が全てだとは露ほども考えてはいないが、担任業務から外れているので他の判断材料を持ち合わせていない。

「ああ、市丸か。そんなことないよ、本来なら1組でもトップクラスの実力があるんだ、彼は。去年は1組5席だったけど、それも彼の五割ほどの実力だと僕は考えてるけどね」

「あ、学年主任の、えーっと…」

 床に落ちた乱菊の赤ペンを拾い上げて差し出す、柔和な面差しをした教師が苦笑する。

「半年過ぎても僕の名前を覚えてくれなかったのは君で二番目だよ、松本君。ある意味では誇らしく思ってくれて構わない」

 乱菊が思い出すまで名乗る気がないのか、ペンだけ机上の邪魔にならない場所に置くと、僅かに苦い表情を浮かべて優雅な足運びで自分の席に戻っていった。

「何て名前だったかしら…?」

 当たりの柔らかい男ほど信用ならない、とは思春期に入ってから此方、数年間に及ぶ乱菊の信条だ。だからといって答案用紙でいきなり結婚を申し込んでくるような輩はもっと信頼できない。胡散臭さが答案から臭い立っているようで、採点の必要性が見当たらないそれを、乱菊は一番下に回した。

「ま、返すときに忘れなきゃ良いんだもの。臭いものには何とやら、ってね」


 乱菊は気と赤ペンを取り直すと、採点作業に集中しようと頬を叩いて仕事へ没頭していった。


 * * *


 授業を終えた乱菊が集めた小テストの採点に取り掛かった時、ふと以前の悪戯が脳裏を掠めた。

「何て名前だっけ、あのバカ」

 席次と氏名の部分を軽く捲っていると、とある一枚で手が止まった。

「いた…ふざけた名前。ギン、市丸ギン」

「ウチの生徒がどうかしましたか、松本先生?」

 乱菊が視線を上げると、大学の同期生でこの学校では一年先輩にあたる黒髪をひっつめた女性教諭が微笑んでいる。

「あら、七緒…じゃなくて伊勢先生。コイツなんだけど」

 生徒やPTAの目が光らない場所なので気にしない。彼方此方に四六時中気を遣っていては長い教員生活は勤まらない。そんな風潮の中でも、乱菊は一際異色を放っていた。男子生徒からのセクハラ紛いの揶揄いが日常茶飯事なのは見た目の問題だけではない。話し掛け易い雰囲気も理由の一つ。同期同僚の教師からも熱い視線を投げられていたが、全て伊勢が遮ってくれていた。



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