風日祈宮

□dal segno/大学入学篇
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 * * *

 数日ぶりに帰ってきた部屋なのに、二人とも他所の家に来たような気分だった。学校や買い物から帰ったときのような「おかえり」も「ただいま」もなく、ギンはソファに、乱菊はフローリングの床にペタリと座り込んだまま、手荷物を片付ける気力さえ起きない。

「なんやろ、このアウェー感」

「FA使って受験したんだもん、仕方ないでしょ」

 心待ちにしていたゴールデンウィークを利用して帰省した。一ヶ月ぶりに帰った家は、何も変わっていなかった。二人の部屋もそのままだった。こちらを留守にしたのは、たった数日。なのに、まるで我が家という実感がない。

「でも、向こうほど暑くないね」

 さっそく今夜から五月にあるまじき暑さになるという予報が出ていたから、夏物を少し持ってきた。しかし、そこは日本屈指の暑さを誇る盆地育ちの二人。最高気温がリアルTOP5にでも入らない限り、そうそうへこたれない。

「ちゃんとクーラー使え、て言われてきとるから、無理したらあかんで、乱菊?」

「それは大丈夫。倒れて心配かけたくないから、ギンのお下がり持ってきたし、荷物にも多めに入れてあるの」

「……そっか。そらよかったな……」

 その他の着替えは、特別に買っておいてくれた山椒と日持ちする食品と一緒に、明日の午後に届くことになっている。その中にギンの着古しが入っているということは……。

 真夏の夜の悪夢、再び。毎年、夏が訪れるたびに、本当にあった怖い話。しかも今年からは二人きりという、全く嬉しくないシチュエーション付き。

――どんな試練やねんっ! ほんまオバサン、あんたの娘なんとかしてぇな。

 私服通学だった高校生の頃、特に夏場の乱菊の胸元は常に開放的だった。その所為で誰にでもウェルカムだと誤解した憐れな男子高校生たちが屍になり、諦められずに集団ゾンビ化した。

 神々の谷間にダイブしようとしてグーで殴られるなら、まだラッキー。背後から攻略しようとして顔面に裏拳を喰らう不届き者や、堂々の正面突破を試みて股間に痛恨の一蹴りをもらうビギナーもいた。

――ま、ほぼ毎日ボクのミット打ちに付き合うてくれとったしな。

 手加減していたとはいえ、有段者の突きや蹴りを受けていれば、嫌でも打たれ強くなる。しかも乱菊は元々の筋がよかったから、実践でさらに腕を上げていった。三年間で乱菊の自衛スキルは格段にアップ。自信をつけた彼女は、高校最後の夏に宣うた。「安心してギンのシャツ借りて学校行けるね」と。

 そして今年もまたやってくる、拷問の夏、彼シャツの夏。

 去年からは部屋着に甚平も仲間入りしていて、ギン限定で乱菊の素肌はデフレスパイラルに陥っていた。そしてギンの勘は、今夏は更なる危機的状況が訪れると告げていた。

 ギンは眉間に微かな皺を刻んで、膝のバッグを漁っている乱菊を眺めた。買い物には出資者と一緒に出掛けたのだ。突拍子もないものが出てくるはずがない……

「見て見て。可愛いでしょ? 大学生になったら、ちょっと大人っぽい重ね着にチャレンジしようって決めてたの」

 色とりどりのチューブブラ、カップ付きキャミソールにビスチェ。シンプルな無地のシャツが多いから、組み合わせられないものはないように思えた……外でなら。問題は、部屋の中。

「まさかとは思うけど、それをボクの前で重ねんと着る気やないよな?」

「え? ダメなの?」

 間違いない。これは誘惑で間違いない。それでもギンがヤる気にならなかったら、事故を装ってポロリするだろう。甚平の衿に隠された峡谷や、袖口から覗く膨らみのカーブにMPをゴリゴリ削られていた去年の夏を思い出す。チラ見えで瀕死だったのだから、モロ出しされたら即死決定。

「ボクのことも考えてぇな」

「暑いならギンも脱ぐ? ぱんつ一枚で歩いてても平気よ?」

「そういう問題やなくてな」

 やれやれ、と溜め息を吐いて床に散らばるキャミソールを手に取って陽の光に翳した。淡いブルーが床に涼しげな波の模様を作っている。

 中身に興味を持ってほしかった乱菊が持ってきたファッション雑誌を一緒に眺めていた所為か、ギンの女性下着に対する抵抗感は、年々減少傾向にある。二人で暮らし始めて一ヶ月。洗って干して片付けているうちに、さらに抵抗力がついた。

「綺麗でしょ、その色?」

「うん。夏にはピッタリやな」

「この色の瞳をした彼がいますって断ったら、気分爽快かなって」

 淡い青色でも、どちらかといえば乱菊の瞳の色に近い。客観的にツッコミを入れたギンに、乱菊は悪戯っぽく笑った。

「ラベンダーのオーガンジーのブラウスがメインになると思うけど、あとはオーキッドのシャツに合わせるからいいの」

「その組み合わせ、ボヤけへん?」

 お下がり狙いの乱菊は、いつもギンと一緒に買い物に行って欲しい色のシャツを買わせていた。ジーンズに合わない色はなかったから文句はなかったけれど、乱菊が重ね着するとなると、話は別。

 掌中の珠には常に美しく輝いていてほしい。下卑た視線を向ける野郎は許せなくても、見向きもされないのも悲しい。矛盾した男心を見透かすように、乱菊はバッグの底から淡い紫色のシャツを取り出した。

 膝に乗せたキャミソールの上で、シャツに細かいダーツを入れる。

「ギンの髪ってね、光の加減で紫がかって見えるって知ってた?」

 二枚を重ねたまま胸元に当てて、ここでギンが見張ってくれてるみたいでしょ、と得意げに微笑む乱菊に、ギンは渋い顔を向けた。

「前にテレビで見た、懐かしの昭和アニメ思い出した。乱菊にとってボクはTシャツに張り付いたカエルなん?」

「……なんでそうなるのよ……」

 唐突に乱菊は、幼馴染の彼氏と同棲できるなんて羨ましいと囃し立てられた高校の卒業式を思い出した。同棲ではなく同居、幼馴染には幼馴染なりの大変さがあるのだと怒鳴りつけに帰省したいのを、乱菊はグッと我慢した。


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