風日祈宮
□SSAS〜After School
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* * *
実習初日のスケジュールもほとんど終わり、実習生は教員室でそれぞれ世話になった教師に挨拶回りをしたいた。
「伊勢センセ、松本センセ。お久しぶりです」
お久しぶりも何も、この週末に二週間分の荷物を持ってギンは乱菊の部屋へ押し掛けてきた。その時に伊勢とも顔を合わせている。
「久しぶりね、市丸君。元気にしてた?」
「ハイ。伊勢センセーもお元気そうで何よりです……松本センセ?」
生徒の顔を忘れたのか、とギンはわざとらしく落ち込んだ顔で伊勢に助けを求める。
「乱菊さん、大人げないですよ」
伊勢は声を潜めて、無表情でプリントを睨みつけている乱菊を肘で小突いた。いくら学生服がスーツに変わっても数センチ背が伸びていても、教科担当以外に副担任もしていたのに憶えていない、では教師失格。
チラっと横目で窺った乱菊は、横を向いていたギンが肩を竦めたところを目撃してしまった。
「あんたは何も変わってないようね、市丸ギン。相変わらずふざけてて」
「嫌やなぁ。ボク、ふざけてませんよ?……昔も今も」
へらへら笑っている顔の中で、眼だけ笑っていない。薄色の瞳が真っすぐ乱菊を射抜く。気圧された乱菊の椅子の背凭れが軋んだ。
『教員免許さえ取っとけば、いつでも傍に行けるやろ?……たとえば、しつこい奴に誤解されてストーカーされて困っとる時とか』
昨夜、ギンにそう迫られて、乱菊は返事に窮した。半分くらい事実だったから。同僚だったのでやんわり断っておいたが、どうも脈アリと思わせてしまったかもしれない……が、まだストーキングされるところまではいっていない……はず。
『この部屋ヤらしい目で見上げとる男がおった。乱菊の同僚かどうかは知らんけど』
『嘘っ!?』
『ボクの方が嘘であってほしいて思うとるっちゅうの』
卒業生だからもろもろ筒抜けているが、ギンに対する評価は『優等生』だった。今は資格もある。あとは教鞭を執らせるに足ると証明できれば、いつでも臨時講師として潜り込める。
母校に乗り込んで真っ先にギンは教員室を見回した。卒業してから赴任した教師も全員チェックしたが、取り敢えず乱菊の身に危険が及ばないことは確認できた。
ギンは、いつでも本気だった。隙だらけな乱菊を守るために必死だった。なのに……
「変わんないわ。みんな自分よりバカだと思ってる。なんでも知ってるような顔して生意気な口きいて、」
「らん「乱菊さん!」
一歩前へ出かけたギンを視線だけで押しとどめ、伊勢が乱菊の肩を抱いて顔をあげさせた。蒼褪めて、震えている。
「ごめんなさいね、市丸君。松本先生、ちょっと調子悪いみたい」
保健室に連れていくからと、そのまま二人で出ていった。その場に一人残されたギンは、最後まで乱菊が握りしめていたプリントに目を留めた。
一年三組の生徒の回答用紙だった。自分という前例があるので、組と席次が総てだとはギンは全く考えない。問題なのは、そのクラスが乱菊の受け持ちだという事実と、その内容だった。
「先生エロすぎ……って、満点とれるようんなってから、こういうことは書きなさい、っと」
乱菊の担当する現国で七割も取れないような輩が口説こうなど千年早い。ギンは乱菊の代わりに厳しめに採点してから、『松本先生は売約済です』と書いた付箋を貼っておいた。
* * *
「この売約済みって、いったい何?」
「言葉通りの意味やけど? それともプロポーズって年度更新制なん?」
あのあとギンは教科担当教諭の下で今後の予定や何やらの打ち合わせがあって、帰りが遅くなることは事前にわかっていた。乱菊は答案の件もあったので、伊勢を夕食に誘って食べて帰ってきたから、今は落ち着いている。
「そういう話じゃなくて。いくらマセガキでも生徒にこんなもの見せられるわけないでしょって言ってるの」
先に帰宅して明日からの準備をしていたギンの手元に『松本先生は売約済みです』の付箋紙をヒラヒラ落とす。
「見せたったらえぇのに」
机の上に散乱していた実習生用の資料に気付いて、読ませてもらおうと伸ばした手を引っ張られ、乱菊はギンの胸元に倒れこんだ。
「言うたったらえぇんや。エロいことされすぎてエロくてご免ね? ぎょうさんシてもらって満足どころやないの、腰なんてグズグズに蕩けそう。て」
緩く背中から抱き締めたギンが、文句を紡ごうとした唇をそっと指で塞いだ。撫で続けられると欲しくなって舐めようとすれば、するりと逃げるように顎を擽ってから反対側の耳までフェザータッチで触れていく。その感触だけでトロリと蜜が溢れたのがわかって、乱菊の体温が一気に上がった。
――最近の先生エロすぎ。彼氏じゃ満足できないんでしょ? 淋しかったら連絡ちょーだい。おすすめは年下の男。紫の上にしてくれたらサービスするよ?
連絡など必要ない。素直にお強請りできない乱菊に、年下のエロい彼氏は察しがいいから欲しいものは全部くれた。穏やかな午睡も、美味しいご飯も、溺れるような快感も、気怠くまどろむ時間も、甘い囁きも。五月の初めにギンの試験が終わってからは、以前のようにマメに会えるようになった。最近の乱菊が生徒を惑わせるような雰囲気を出しているとすれば――それもこれもあれもどれも全部ギンが悪い。
……とは、とても本人には言えないけど。
「ば、売約済みなのは認めるけど! でもっ、満足してるとかしてないとか、そんなのイチイチ生徒に言うことじゃないでしょッ!?」
睨み上げる乱菊の目許が赤く染まっている。火をつけたのはギンだが、誘っている表情は見慣れていても思わず息を呑んでしまう。細かく震えてさえいなければ、今すぐ押し倒していただろう。
例の答案には、幼い字でここの住所と自分のラインのIDが付け加えられていた。
「このヒカル君、もしかしたら覗いとるかもしれへんよ?」
ギンが帰ってきたときにはまだ明るかったから、わざと窓の近くをウロウロしてやった。窓際に干してあった乱菊の洗濯物を外に出したり、その下で欠伸をしてみたり。
「まぁ、見られたとこで問題あらへんけど」
「でも、学校でバラされたら……」
「匿名でバラす・いう手もあるか。うーん……」
教師が誰と同棲しようが、問題にはならない。実習生と一時的に暮らしていても、ギンはすでに卒業しているから乱菊が引責どうのと言われることはない。むしろ独身女性をストーキングした方が罪に問われる。
「もうちょっと甘い雰囲気んなった時にしよう思てたんやけど、」
ギンは乱菊に手のひらを差し出して「お手」と言った。思わず手を乗せてから乱菊は我に返って引っ込めようとしたが、力ではギンに勝てない。
肩幅に足を開いて踏み締めて、もう一回と力をこめた手に、硬質な感触。夕陽に照らされても色を変えない、蒼い石の指輪だった。
「……綺麗。サファイア?……ありがとう」
「あー……いや。今年度分っちゅうか、正式なプロポーズなんやけど」
「今度こそホントのホントに? じゃ、これって婚約指輪? 嬉しいありがとギンっ!」
ギンは抱き着かれたまま、それを嵌めていけば何を言いふらされても対外的、倫理的には気にする必要はないと説明したが、乱菊はまったく聞いていなかった。
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