市丸帝国

□お財布キツネちゃん
2ページ/5ページ



「で、ギンが買いたいって言ったから、あたしが殆んど出したんだけど」

 夕食の支度が整っている机に、チビ丸が背負っていた風呂敷包みを置いた。結び目が解けて現れたのは、大きく『純米大吟醸』と書かれた一升瓶。盆を持ったままの吉良が瞬間フリーズされた。

「ほら〜、だから言ったでしょ?初日から高い買い物しちゃ駄目だって」

 ママが卒倒するから止めておけ、と乱菊はきちんと忠告した。店主に白い目で見られてもチビ丸が駄々をこねても説得を続けた。それでもチビ丸は買ってかえるのだ、と引き下がらなかったので乱菊が大半を支払ったのだが、やはり吉良は往時の無駄遣いを思い出したのだろう。卒倒こそしなかったが固まってしまった。

「イヅル、軟やなぁ。すぐ目ぇ回す隊長さんとか、あかんやろ」

「あんたが言う、それ?」

 吉良が何かに動揺したり卒倒したりする場合は、全てにチビ丸が関わっていると言っても過言ではない。あまり景気がいいとはいえない仏頂面を貼り付けていて、そうそう喜怒哀楽を露わにしない性格だった筈だ。それが、乱菊の知る吉良イヅルだった。

 チビ丸の帰還を発端に、乱菊の『護廷人物図鑑・吉良イヅル編』に感情豊か、と記されるようになったのである。

「ほんでもイヅル、すぐ怒るし鼻血ふくし」

 駄目駄目だ、と吉良の羽織を捲り上げてチビ丸が肩を竦める。

「…全部あんたの所為だから。それに、それ」

 乱菊は足を崩して座ると、チビ丸を手招きした。駆け寄った勢いで胸元で揺れているキツネちゃん財布を指差す。売っている物からは感じられない温もりが漂っている。

「ギンが大事で可愛くて仕方ないから、吉良も頑張って縫い物してくれたんじゃないの?」

 仕事を放り出してチビ丸と何件も茶店のハシゴをした乱菊は、半日でチビ丸がどれほど財布を作ってもらって嬉しかったのかが手に取るように分かった。

「ほら、分かったら吉良を解凍して頂戴。じゃないといつまで経ってもご飯食べれないでしょ?」

 はぁい、と返事をしたチビ丸が吉良によじ登って頬を叩き始める。衿を掴んで揺さぶり、ご飯を強請っている。

 ふと乱菊は、妙に今日のチビ丸の素直さに気付いた。財布の一件が嬉しかったのはすぐに分かったが、逐一思い出してみれば、どの場面でも今日のチビ丸は総じて素直だった。駄々は捏ねても、いつまでも減らず口を叩かなかった。そんなチビ丸に違和感を抱かなかった自分に、乱菊は表情に出さずに驚いた。

(ギンに心境の変化でもあったとか…?でも、あの『ギン』だし…。じゃなかったら、吉良が何か言ったかやったか、だけど…)

 乱菊から「とにかく吉良を起こせ」と言われたチビ丸は、吉良の肩に乗って髪を引っ張ったり頬を抓ったりしている。相変わらず遠慮の欠片もない力業を目の当たりにして、乱菊は呆れの混じった溜め息を落とした。あれでチビ丸を嫌いにならないのだから、吉良の『市丸ギン崇拝』も大したものだと思う。乱菊なら、正気に戻った途端に張り倒している可能性が捨てきれない。

(っていうか、絶対はっ倒して取っ組み合いの喧嘩になってるわ)

 今度は背中から逆さまに張り付いて、脇を擽っている。このままチビ丸に任せておいたら遊びに移行してしまうだろう。乱菊は自分で吉良を起こした方が早い、とチビ丸を抱き上げた。

「ギンはお箸とかお茶碗とか用意しといてちょうだい」

「うん、わかった」

 返事と共に台所へ走っていく後ろ姿を見送りながら、やはり変わったなと思った。乱菊が意地になっても変えられなかったチビ丸をどうやって素直にしたのか、吉良に訊かなければ解明できない。乱菊は吉良の耳許で大声を張り上げた。

「起きないなら、ギン連れて帰っちゃうからね!」

「だっ駄目です、それだけは絶対に嫌…あれ?」

 乱菊は同情を隠そうともせず何度も頷きながら、吉良から割烹着を脱がせた。

「うんうん。大丈夫よ、連れてかない。正気に返ったあんた以上に安心してギン任せられる奴なんて、他にいないもの」

 吉良にウィンクしてみせてひとまず安心させてから、乱菊は肩越しに台所の様子を窺った。チビ丸は爪先立って手を伸ばし、菜箸に紛れた三人分の箸を探している。

「吉良。あんた、ギンに何か言った?あ、お財布の管理やお金の遣い方以外で。なんかギンが素直なのよ。いい傾向なんだけど、ちょっと気になってね」

 乱菊から受け取った割烹着をたたんでいた吉良は、首を傾げている。どうやら直ぐには思い当たる節がないようだ。

「ま、いいわ。なんか思い出したら教えてちょうだい」

 自分には不可能だったからといって、乱菊が吉良を恨んだり責めたりすることはない。それは吉良も充分過ぎるほど分かっている。互いに互いを過保護だと笑って、その日も平和に過ぎていった。



次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ