風日祈宮

□dal segno
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 土鍋の蓋をずらしたギンは、ゆっくり開いた寝室のドアを振り返った。

「ちゃんとサインしといてくれた?」

 起き抜け一番、乱菊は喧嘩腰でギンに詰め寄った。リビングを一瞥して見付けたバッグから真新しい離婚届を取り出す。

 やはり何枚も持っていたのか、とギンは顔を背けて溜め息を吐いた。本当に別れるつもりなら、どうして夜中に目が覚めた時に出て行かなかったのだとギンが問えば、他に行く場所がないのだから仕方がない、と乱菊はしゃあしゃあと切り返した。

「他に行く場所ない、て…」

「当たり前でしょ、あんたが浮気しなかったらこんなことにならなかったんだもの」

「やから浮気やない、て言うてるやん」

 ギンの作った特製卵粥を当然の顔で啜る乱菊が、胡乱な眼差しで茶を淹れてきたギンを睨み上げた。付き合いが長いだけあって、乱菊は阿吽の呼吸でギンから湯呑を受け取る。

「現場押さえられといて、まだ言う?」

「…あのなぁ…」

 例の娘への適当だったギンの対応に気付けない乱菊ではない。相手の娘の態度と父親の肩書きが気に食わなかったのだ。ずっと一緒にいるのが当たり前だと思っていたギンを奪われてしまうのではないか、と乱菊は怖れている。ただ一言、出ていくなと言って欲しかったのだと言える素直さに欠けている自分が、乱菊は恨めしくて仕方がない。

 一方のギンにしてみれば、今回も乱菊お得意の可愛らしい我が侭だ、と笑って許せる限度を超えていたのだ。

「いっつもいっつも言い掛かりで責められて別れ話切り出される立場にもなってみぃ、っちゅうの…」

 冷蔵庫から粥に合うと思われる漬物のパックを出してきて乱菊の前に置いたギンが深い溜め息を吐く。

「いっ、言い掛かりって!」

「違うたこと、あったか?」

 前回は離婚届を出した三日後に「勘違いしてご免なさい」と照れ隠しの笑みを浮かべた乱菊と共に婚姻届を出しに役所へ行っている。その前は一週間だった。

「でもっ!今回の子は何か違うもの!ほんとは嫌なのよ!?でもギン盗られちゃう前に別れとかなきゃ、あたしが恥かくじゃないっ!?」

 大声を出した所為で頭痛を訴えた乱菊に、ギンは鎮痛剤を持ってきて向かいの椅子に腰かけて頬杖を付いた。それが本音ではないだろう、とギンは肚の底から溜め息を吐き出す。

「恥かきたないから、て誰か知っとる奴、社内に居ったっけ?」

 今はまだ空白の、離婚届の証人欄を指で叩いた。最初の婚姻届から一度目二度目の離婚届、二度目三度目の婚姻届も二人共通の学生時代の友人に頼んでいる。そろそろ呆れられて諦められているかもしれないし、賭けの対象にされていても可笑しくない。くっついたり離れたりと非常に忙しない三年間だった。

 覚束ない手付きで薬を開けて飲んだ乱菊は、黙ってこめかみを押さえている。

「それもこれもキミが社内カミングアウトしたない、言うからあかんのと違う?」

 乱菊は頑なに社内でギンと結婚している事実を隠している。この三年間、ギンは何度も理由を訊ねた。旧姓でも仕事は続けられるではないか、と説得も試みた。だが、乱菊は折れなかった。

「だって…」

「『だって』、何?」

「人妻だって知られたら飲み会に誘って貰えなくなるじゃない…それに、ギンを怖がって遠慮する奴、あんたが思ってるより大勢いるのよ?」

 結婚指輪が挙式以来ケースに入りっぱなしの真相が三度目の離婚を前にようやく判明して、ギンは酷い眩暈を覚えた。幼い頃からの乱菊への想いや積み重ねてきた時間は飲み会の勧誘に負けたのか…、切なさより空しさがギンに押し寄せる。見慣れた天井を仰ぎ、次に机に視線を落としてから、ギンは静かに切り出した。

「……別れよか、乱菊?」

「…え?」

 自分さえいなければ乱菊は好きな時いつでも気兼ねなく飲みに出掛けられるし、男だからギンならいくらでも会社で寝泊まりが出来る。しかも乱菊より早く次の住処を見付けられるだけの収入もある。

「キミに行く宛がないんやったら、ボクが出てけば良ぇだけの話やし」

 呆然と言葉を失くした乱菊に背中を向けて、ギンは自分の荷物をまとめ始めた。当面必要だと思われる物を適当にバッグへ次々と放り込んでいく。残りは乱菊が留守にしている合間に運び出すから、と淡々と告げた。

「ちょっ…」

 済まなそうな笑いを浮かべ、ギンは手を止めて乱菊を振り返る。同じ大学に進学して同じ会社に就職した。極秘で付き合って数年、プロポーズしたのはギンだった。タイミングを見誤ったのだとしたら自分の所為だ、と自嘲気味に笑う。

「ご免な。もっと自由に遊べる時間欲しかったことに気ぃ付いたれんくて」

「ちょっと待ってって…」

「これ、サインしてから郵送するから、乱菊が出しといてな」

 突然の成り行きにギンを引き留める言葉が浮かばない。見た目より慌てている乱菊の手の下にあった緑色の離婚届が抜き取られた。

「今までほんま楽しかった。おおきに、乱菊。元気でな」

 リビングのドアの手前で足を止めたギンに乱菊が掛ける言葉を必死に探す。巧い言葉を探しながら(素直になるのよ!)と自分に言い聞かせて乱菊が俯いていると、そっと頭を撫でられた。

「薬はほとんど救急箱やけど、二日酔いのだけはサイドボードで、買い置きはキッチンの棚やから。あと、」

 一拍の間に期待した乱菊へ、ギン自身は他意のない捨て台詞が掛けられた。

「昨夜の飲み代やけど、払ってないんやったらボクが払っとくから、思い出したら店の名前だけメールして」

 静かに閉まった玄関の音が響くと同時に、乱菊は掴まっていた椅子から崩れ落ちた。

「何でよ…何でギンが出てくのよ…」

 一言も出て行けとは言っていないのに、と続くはずだった言葉は、胸やけや頭痛の所為ではない嗚咽の中に消えていった。



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