短篇小話 2


□明けぬ闇
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 間断無く風の音がしていた。だが、すぐにも気にならなくなった。明け方間近い荒野の一角で、夜の底に二人きり。そこはたいそう暖かで、しかもたいそう落ち着ける空間で。うっかりすると眠くなるのが、だが、惜しくてたまらず。それを振り払うためのように、他愛ないこと、何とか思いついては。ぽつぽつと肩を抱く相手へ話しかけていた。あまり話し言葉を知らぬ者が随分と無理をしてと、微笑ましげに細められていた双眸が、あんまり優しかったから。朝が来るのが何とも恨めしかったのを覚えている。そのまま独りで行かせたくはなくて。いや、独りになりたくなかったのは、今思えば自分のほうであったのか…。




       ◇



 虹雅渓の最下層部にある“癒しの里”は、あからさまに言えば遊郭や置き屋の多く居並ぶ色街で。大門をくぐれば、領主も差配も関係ない。野暮は言わず、世俗の垢もしがらみも忘れましょうよというところ。蛍屋はどちらかというとお座敷や料理が主体の店ではあったが、意の通じ合った異性と二人きりで過ごすには似合いの、小粋な庭を望める静かな部屋や離れもある。昨夜からこっち、個人的で特別な客人たちを迎えたことから、女将のユキノが気を遣ったらしく、今宵はあまり泊まりの客はいないようで。宴の賑わいなんぞも少々大人しめにしか聞こえては来ない。
「………。」
 話の切りもよく、それでは明日の出立に備えてとお開きとなった場から立ち上がった彼が。障子を開いて廊下に出るなり足を止め、それから何かに気を引かれたような素振りを示した。まるで、目には見えない馥郁とした香りにでも誘(いざな)われるように、出たそのまま進みかけたのとは反対の方向へと歩みを運び始めたので。どうされたのか、まさかに奇襲の気配かなとついつい眉を顰めつつ、後へと続くよに廊下へ出たシチロージであったが、
「…あ。」
 そんな主の、背へとかかるほどにも伸ばされた蓬髪のかかる肩の向こう。明かりを灯さぬ長い廊下のその先が、夜陰の闇に呑まれかけてる曲がり角。星の瞬きと里の明かりとがその瞬きを拮抗し合ってる様を、一幅の絵のような構図で望められる小窓が開いたその中に。隣りの棟の廊下の欄干へ、見目のいいしなやかな腕を引っかけて、凭れ掛かっている細い背中がちらりと見えて。夜の帳(とばり)に彩度を吸われた赤い背は、昨夜、この店の前にて怪しい連中が火を点けようとしていたのを片っ端から切って捨てたという、我らがお仲間のうら若き侍殿ではなかろうか。
“あれから今日いちんち、姿が見えないままでござったが。”
 それが今、気配なく戻って来ていたということであるらしく。相変わらずに寡黙で、有言実行ならぬ不言実行なお人だなぁと、ついのこと、苦笑混じりに肩を竦めてしまったシチロージ。そんな彼の待つほうへと向かってゆくカンベエの、こちらは褪めた白が月光を弾いて冴えて見える肩や背を見やり、小さな笑みをついつい浮かべてしまう。

  『よくぞ来てくれた。』

 ヘイハチが近頃まで誤解していたように、この御方は、無闇矢鱈に人を信じるのではなく、たとえ再び裏切られてもその非までもを受け容れられる、それは深い尋をお持ちな方で。そのくせ、ご自分のことをあまり好いておいででないカンベエ様は、それがため、ここ一番という時にあまり他者へと期待や依存をしない御仁でもあった。信じないのではなく、罪深い“侍”という存在であるご自身の信念へ、他の誰ぞまでもが…そんな義理も必要もないのに引き込まれるのを善しとしなかったから。だから。そんな御主が、昨夜突然現れたあの若侍へとそんな言葉をかけたのが、シチロージには少々意外で。だが、
“手古摺って…は、いないようですね。”
 人になかなか慣れない仔猫は、柔らかな衣紋などでふわりとくるんでやって、そのままで抱いててやると、小一時間もすりゃあ安心してか大人しくなるのだとか。カナリアみたいに端正で麗しい、その風貌や佇まいが、刀を取ればガラリと変わっての一気呵成。阿修羅の如く、夜叉のように立ち働き、人を屠(ほふ)るに微塵も臆さない剛の者。我らとは全く異なる、極端に偏った価値観を持ち、しかもそれを超然と貫き通して世界を見ているかのような。そんな 一種神憑りな御仁が、なのに、カンベエへと添いたがる。人に馴れるはずのない、そんな存在までもが慕う主。そんな印象がして、我が身の誉れのように擽ったくて。いやそれではキュウゾウ殿に失礼かと、別な苦笑を頬張りながら。庭の椿がつややかに、月光を弾いて濡れ光る中、ユキノの待つ部屋のほうへと足を運ぶことにしたシチロージである。






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