砂 時 計
□碧色
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電車に揺られながら、僕はいつものように手にした文庫本をめくる。僕の駅からは混み合う前に必ず座れる。だからゆっくりと読書もできる。段々人がぎっしり詰まっていく鉄の箱のなかで自分だけの世界に入ることが出来た。
――…前兆。キザシ。
物語のキーワードがじわりと胸に染みる。そのたびにあの柔らかな微笑みが頭に浮かぶ。僕の脳裏からずっと離れてくれない面影。
あれから、一週間経った。
あれ以来、あの古本屋には立ち寄っていない。ちらっと擦れ違い様に中を覗いては彼の姿がないか、捜してはみた。けど……姿は見かけなかった。
だからといって中に入れば、また彼に試されるような真似をされる気がして……怖くなる。何処かで僕をからかうために監視してるんじゃないかって。
結局……複雑な思いに駆られたまま、僕はあの本屋に行けずにいる。
――…ホームに降り立つと、かもめの鳴き声と潮風の匂いが僕を迎える。手にしたままの文庫本がぱらりと風に揺れた。
ホームを抜けて、青い海を臨める波止場際を歩きながら僕はふいに目を細める。
ねえ、本当はどうしたいんだろう。僕は。
本当は――…、僕だってこの羊飼いの少年のように、なりたい。
僕にも退屈で億劫な日常から抜け出せる勇気が欲しい。
でも……、僕はそうしてこの町を選んだ。
孝也から逃げたくて。家族から逃げたくて。反対を押し切って遠い町を選んだ。でもそれはある意味僕にしてみれば、冒険に通ずる選択であったのかもしれない。
暗闇に沈んだ中学時代とは違う何かを見つけたかった。そうして辿り着いたこの町で――…僕はいま不思議な今までにない感情にとらわれている。
僕は、あの青年に出逢うことを望んでいる。あの微笑みに再び、会いたいと思っている。
潮風が、髪を揺らす。海色の地平線を前に僕はかたく瞼を閉じる。
だけど――…この気持ちが踏み躙られることを僕は何より畏れている。だから踏み出せない。水面に浮かぶ船のようにふらふらと……揺れている。