蒼穹

□東に白く昇る月
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暗い部屋の中、揺らめきながら細い声が歌う。
「背の君…」
おずおずと寝所に入って来たのは妻の膳部菩岐々美郎女だった。
ゆらっ、ゆらっと節に合わせて半ば解けて乱れた髪が揺れた。
「背の君、髪を結いましょう」
「んく、くふふ、ふふっ」
「お召し物も直しましょう」
「く、ふっ」
香を焚き染めた寝台の上で、白い裸体がむずがるようにみじろいだ。細い手足に絡まるだけの衣類は汗を吸って重い。
あちこちに散っている黒い染みを目にして膳は寝台に駆け寄った。
「背の君、お怪我を!?」
「ふ、ふ、ううん、ちがうよ…」
上機嫌に腕を振り上げた。
染みが広がる。
「きゃ…」
その手は筆をしっかりと握っていた。墨が黒々と滴り、衣に撥ねて広がった。
「今夜は馬子とね、いぃこと話してたんだよ」
枕を取り上げる。


和を以て貴しと為す


墨書きで書かれた文字。
「みんなが仲良く暮らせるようにするの」
仰向けに転がると枕を持ち上げ愛しげに眺める。
「それは、良うございますね」
目立たない小さな白い乳房は流れ、骨が浮く身体はまるで少年のようでもあった。
膳が頭を撫でると目を細め、くすぐったがるように笑う。
「背の君」
優しげに呼べば
「なぁに」
普段より高く甘い声で答える。
「おかえりなさいませ、愛しい人」
戯れのように口付けを交わす。
はらはらと落ちては流れる黒髪。手を繋ぎ額を合わせて笑い合うそれは童女二人のままごとのようにも見えた。
「きらい、きらい、きらぁい?」
「嫌いになんてなれませんよ、愛しい人」

たとえそれが壊れて崩れたとしても。
たとえそれが抜け殻だったとしても。
「私は貴女が愛しい」
寝台に座れば厩戸はその膝に頭を載せ、枕を抱くと背を丸める。
髪を梳いてやれば安心したのかうつらうつらと微睡みはじめた。

「かしわで」
「はい?」
「く、ふふ」

その声を最後に、笑い声が規則正しい寝息になる。
髪を梳き、膳はその目許に口付けた。
塩の味がする眼尻。

膳はその身体に静かに掛け衣をかけた。

「貴女がそれを望んでくだされば比翼の鳥、連理の枝となりましょう。されど…貴女はそれを望みましょうか」



東に白く昇る月
暁に掛かるそれはさながら夜の夢の名残。
二十六夜の蛾眉の月。
それはさながら爪痕の如く。


姿を隠そうと暁を否応に連れ立ち導く月。


漸く眠りにつく厩戸はまた直ぐに朝参へと赴くだろう。



この日出る国を導くその身体は、白く儚い。

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