黎明

□道化との邂逅
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鬼が、舞っている。
折しも黄昏時。
厩戸は突然視界に舞い込んだ姿に思わず馬の足を止めた。
「あれは」

その妖は腕の二倍はあろうかという長く伸びた袖を風に靡かせて舞っていた。赤く沈む日の朱い光の中でそれだけが、白い。

鹿鳴の如く高い笛の音。その妖は腕を広げて回る。甲高い声で、何かを謡っている。
それは、厩戸にとって全く未知の言語である。
朝鮮語でも、中国語でもない。
人ならぬ貌は真白で、墨で描かれた紋様が目鼻立ちを表していた。
茫然と厩戸はそれを眺める。

鬼、あぁ、当然か

一帯に広がるは小丘の群。
それは墳長およそ10m程の墳墓の残骸。
無惨にも崩されたそれは玄室が露になり、その石ですら切り崩されていた。

その上を、鬼が均す様に足拍子を刻む。
赤土は鋭く細かく刻まれる拍子に踏み固められ、軽業の如く飛び跳ねる爪先は砂塵を上げる。
厩戸の黒目がちな目がその動きを追い、長い睫毛が西日を照り返した。

高く、高く笛が響く。
余韻が四方に散り、幾重にも反響する。
笛吹きの少年が唇を離す。
反響する音の波の中、鬼は乱れた袖を返し、崩れかけた墳墓の上に四肢をついて獣の如く鎮座した。
凪いだ空気は、しんと震動をやめる。


「馬子は、しょうがない方だ」

鬼が唐突に呟いた。
歌声の響きの名残を残しつつも、それはよく通る低い声。
後ろに半仮面を掛けた笛吹きの少年が控えている。
「死後の贖罪はない。しかし、死者の霊を悼み、祈る事も出来ように」
白い、平らな顔がぐるりとあたりを眺め渡す。婆娑羅髪が振り乱れる。
「このように墓暴きをなさるとは」
厩戸はその異形を見据え、口を開く。
「死霊よ、既に朽ちたるは土に還るが道理ではないか」
「呵々」
それは喉を鳴らし、厩戸の言葉を笑う。
「墳墓を暴き、冒涜した者が道理とおっしゃる」
厩戸も負けじと厚い唇を上弦の月の如くに歪めた。
「小さく弱いから悪かったのだ。
死霊よ、若しお前がその墓の主ならば、墓すら守れぬ不甲斐ない子孫らとその様な子しか遺せなかった己を怨め。
それは馬子殿が貰い受けた地にあった。故に崩した」
それがこの世の道理、と厩戸は言う。そして環頭太刀に手をかけた。
「さて、化けの皮を剥いでやろうか。この蘇我の地、甘樫で狂い回るお前は何者」
鬼は再び笑った。
そして、頭の上に手を回す。

「何と短気な事でしょう、救世とも名乗ろう御方が」
鬼が白い仮面を外す。
仮面は婆娑羅髪ごとずるりと、その足元に落とされた。
20代の半ば程の整った顔立ちの偉丈夫である。
「私の知った事か。母上がそう呼ぶだけだ」
「ならば、私も呼ばせていただきましょう。幼き救世(マーシアハ)」
日本人離れした切れ長の眼と高い鼻。
「好きに呼べばいいだろう。私はお前が誰かと問うている」
「そのような細腕では丸腰の私ですら退治できますまい」
長い袖には捲り上げなくとも手を出せるよう穴が開いている。
男は袂から扇を取り出した。それを短刀のように厩戸に向ける。
「幼きマーシアハ。私は貴方に危害を加えるつもりはございません、皇子」
口ではそういいながらも、その言葉を放った口元は人を食ったような笑みを浮かべている。

「あぁ、其れとも…『皇女』と呼ぶべきでしょうか…厩戸皇子」

厩戸は、血の気の引く音を聞く。
咆哮。
「あぁ、冷静さを欠いてはいけませんよ」
男の涼やかな声。厩戸は地面を蹴った。
跳躍。
剥き出しになった玄室の花崗岩に片手で喰らいつき、靴を脱ぎ捨て、駆け上がる。
男は四つ這いのまま眼を細めてその姿を微笑ましげに見守る。

「フリストースはヒュポスタシス。それ故にテオトコスは否定され、聖母とはフリストトコスに過ぎませぬ…故に」

厩戸が、男の目前に迫る。
抜刀。

「故に、聖母の傀儡に成り下がることは御座いませぬ、馬屋古皇女」

刃が振り下ろされる。
通常よりも小ぶりの薄刃が男の顔面を捉える瞬間。
「振りが大きゅうございます」
「う、ぐ…」
刃は扇の骨に絡め取られ、男が手首を捻るにあわせて厩戸の手から太刀の柄が零れた。
「あ……」
「力任せで、勝てるとお思いか」
男の手が厩戸の手首を掴む。
「離せ、無礼者」
「私は、貴方に危害を加えるつもりはございません」
男の身体。厩戸を胸元に引き寄せる。
腕を閉じてしまえば袖の影に厩戸の全身は足元を残してすっぽりと隠れてしまう。
(いや…だ!)
膨れ上がった嫌悪感が全身を凍りつかせる。声すら喉に張り付いた。
「そうですね辟(さけ)……とでもお呼びくださいませ」
男は、柔らかく厩戸を見下ろす。

「私は、貴方の腕となりたく参りました次第にございます…我らのマーシアハ」

緩められた腕から、崩れるように厩戸はその場に座り込む。
「貴方の肉体が女性であろうと、男性であろうと…我らには関係ないのです」
恐怖にも、恍惚にも似た不思議な感覚で厩戸は男を見上げる。
「辟、お前は一体何者だ…」
「貴方を護る者にございます」
辟は仮面を拾い上げ、再び掛け直す。
暗くなり、殆ど見えなくなった視界の中で、仮面と男の衣だけが白い。
「本日は、皇子にお会いしたい一心でこのように無礼仕りました次第。どうぞご容赦願います」
笛吹きの少年が再び笛を唇に押し当てた。
沈んだ日は完全に夜の帳を西の山端にまで引き伸ばし、墳墓の上は殆どの光源を失った。

「またすぐにお会いできましょう」

笛の音が、風を切った。
厩戸の頬を男の袖が掠め、白い霞のような姿は墳墓の上から落下し、そのまま闇に紛れて見えなくなった。

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