黎明

□梅雨漏る宵に
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「叔母様」
「あぁ馬屋古、よくいらっしゃいました」
馬屋古12歳、炊屋姫32歳。炊屋姫は敏達天皇の妃で未亡人である。
時折こうして女の格好で人目を忍び尋ねて来る姪は愛らしく凛々しい娘になっていた。
普段は皇子の格好をしているためか、普通の少女よりきらびやかに着飾ることを喜んだ。
「んく、くふふ」
「私の若い頃の召し物が丁度良いわ。綺麗よ、馬屋古」
人払いした奥の間で戯れに髪を結い上げて花飾りをつけてやれば嬉しげに笑う。
「あまり褒めないでください叔母様…恥かしい…」
「美しい者を美しいと言うことの何が悪いものですか」
「ふふ…」
照れたように下を向いてはにかむ少女を微笑ましげに眺める。丁度自分の娘と同じ年頃、しかし幾分か馬屋古の方が女らしく感じられた。
普段男と振る舞っているせいだろうか、女の格好をしている時はここぞとばかりに少女であった。
外は雨が降っている。蒸し暑い時期であった。
「…ねえ叔母様」
先程まではにかんでいた表情が不意に陰った。
「どうかしたの?」
「…私は、男なんでしょうか、女なんでしょうか」
炊屋姫は言葉を失う。
答えるべき言葉が見当たらない。
「馬屋古…」
「ん、くく、すいませんおかしな事を」
あぁ、なんと残酷な事をするのだ間人皇女よ。熱くなる目頭にぐっと力を込めて耐える。

目の前の娘を女と知っているのは、馬子の大臣と、母の間人皇女と幾人かの側女と舎人、それに自分だけ。
だからこそ、女でありたい時に自分の宮に来るのだと思うといたたまれない。
ましてや初潮を迎え不安定な周期で繰り返す体調不良。
この湿度ではさぞ辛かろう。
「それに母上に似ず私は月のものが軽くて幸いです。男が寝付くわけにはいきませんので」
まるで見通したかのように馬屋古は言った。
「そう、それは幸いですね」
「ふふ、全くです」
くるりと楽しげに回る馬屋古。
裾が空気を孕んで大きく広がる。
「ほほ、まぁお行儀の悪い」
「ふふ」
笑いあっているとき、不意に雨音に混じって何かが倒れる音がした。

「なんでしょう?」
覗こうとした馬屋古の襟を炊屋姫が掴んだ。

「お止めください!」
外が騒がしい。
「穴穂部皇子!お止め…」
ガツンという鈍い音がして言葉が途切れる。
「叔父…上?こんな時間に…?」
徒ならぬ様子に馬屋古は身を固くした。
炊屋姫は馬屋古を強く引き寄せると戸棚の下段に押し込めた。
「お、叔母様!?」
「馬屋古、決して声を上げないで。出て来てはだめ!」
その顔は蒼白だった。
「叔母さ…」
目の前で扉が閉められる。息が詰まりそうな狭い空間に押し込められ馬屋古は困惑する。
ほぼ同時に誰かが部屋に押し入ってきた気配があった。

「何事ですか、穴穂部」
毅然とした炊屋姫の声がする。
「何故だ、炊屋姫、何故に死せる王に仕える!」
対するは低く太い声。
穴穂部皇子。
昨年末に敏達天皇が崩御し、次期大王候補として名乗りを上げた物部の皇子である。

「何故に生きたる王に仕えぬ!何故皆が橘豊日を支持するのだ!」

「諦めなさい、穴穂部。今は彼が王です」
炊屋姫は穴穂部の声を一蹴した。
「その様な泣き言を言いに来たのですか?ならば帰りなさい、無礼者」
「いいや…」
厚く濡れた男の衣が重く床を摺る音。
軽い女の衣が続いて後退るように摺れる。
馬屋古は自分がじんわりと汗ばんでいる事に気付く。
まだ平坦な胸元を汗が伝う。衣が己の匂いに染まる。
暑い。噎せ返るほどに。
湿度のせいだ、馬屋古は妙に冷静にそう思った。

刹那、それは以前父と向かった狩りの時に聞いた音に似ていた。
甲高い雉の断末魔。
羽をばたつかせ、飛び散る羽毛。
猟犬は荒い息でその首に食らいつき、雉は逃れようと暴れ回る。
犬の脚がそれを捕らえ、深々と突き刺さった牙の元、血が飛沫く。

馬屋古の喉が戦慄いた。震えたか細い声など雨音と衣擦れに掻き消されてなかったことになる。
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