手向けの花

□第三章:手向けの花
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あれから、少し経った頃。目を開けた瑞秀は、目の前に広がる筈の司令室の天井ではない、全く別の景色に目を見張る。

何時の間にか眠ってしまったらしい。直感だが、ここが現実世界では無いと分かった。

目の前に広がる景色は、水、水、水。ただそれだけ。頭上から降り注ぐ光が、波紋によって揺らめき、不規則な文様を描く。

―――ああ、ここは海だ。

自分が海の中にいる夢なら、もう何度も見た。恐らくこの後、数えきれない程の水死体達が現れて、自分を海に引きずり込む。きっとそうだ。そうに違いない。覚悟を決めて、瑞秀は眼を閉じる。

だが、肝心の水死体達は、一向に現れない。

そろそろと目を開いた瑞秀は、辺りをよく見まわしてみる。本当に此処は、何時も夢に現れる『海』だっただろうか。

見回してみて、此処が夢に現れる『海』とは違う場所だと気付く。いつも夢に現れる『海』は身を切る様に冷たく、陽の光も差し込んでこない暗い、底の見えない海だ。

だが、ここは水の透明度が高い上に、どうやら浅瀬であるようで、すぐ下に真っ白な砂が積もった底が見える。それに、何より―――暖かい。

まるで母胎を思わせるその場所で暫く漂っていると、後ろから何者かに抱き締められた。自分の胸の前で交差している、細くたおやかな白い腕。

―――あれは―――

身をよじり、後ろを振り向く。

そこにいたのは、艶やかな黒い長髪に、鳶色の瞳をした美しい女性だった。ただ一つ違うのは、下半身が人間の物ではなく、魚の物だったという事だ。舶来の書物に書かれた『人魚』の挿絵を思い出す。

瑞秀は、この女性の顔に憶えがあった。彼女は―――


「―――斎子(ときこ)…!」


優しく微笑んでいる眼前の女性の名を呼ぶ。瑞秀に『斎子(ときこ)』と呼ばれた女性は、ふわりと優しく微笑む。

夢の中とはいえ、この世に留まってでも会いたかった女性に会ったからか、琥珀の瞳から一筋涙がこぼれる。

水の中なのに涙が流れていると分かったのは、体に纏わり付く暖かく柔らかな水よりも熱いものが頬を伝っていると感じたからだ。

「すまない……つい―――」

こぼれてきた涙を慌てて拭おうとするが、それよりも先に彼女に涙を拭われる。

―――貴方が泣くなんて珍しいこと。海が塩辛いのは、貴方が泣いているからかしら?

「そんな。大袈裟な話だ」

―――貴方は優しいから、見ていない所でずっと泣いていたんでしょう?もう良いのよ。

暖かな掌が、瑞秀の頬を撫でる。その手を自らの手と重ねようとするも、するりと身を離された。

いつかは醒める夢だと分かってはいても、別れは苦しい。瑞秀は逃すまいと腕を掴む為に、彼女に手を伸ばす。

―――さようなら。また、いつか。もうそろそろ、海から上がらないと。

その言葉を残し、彼女は海の彼方へと泳ぎ去っていった。



名残惜しく手を伸ばした所で、目を醒ました。

やはり眠っていたらしく、先程情事が行われたベッドに、泥に身を沈める様に横たわった体には、真夏とはいえ体を冷やさぬようにという配慮からか、薄い掛け布団が掛けられていた。

涙が流れた感覚は勿論、どういう訳か涙を拭われた感覚と、頬を撫でられた感覚が残っていた。無論、その熱も。

「おはよーさん。お前さんでも無防備に寝たりすんのな」

ベッドのマットレスに団三郎が腰掛けていた。いつもの様に煙管を燻らせ、飄然とした口調でからかう。

「五月蝿い。余計な御世話だ」

水の中に身を沈めていた時と似たような感覚を感じるも、無視して上半身だけ起こそうとするが、主に腰の辺りに発生した体の痛みに眉を顰める。

そんな瑞秀の姿を見た団三郎は、『無理すんなって』と苦笑し、手を貸した。

「『斎子』って……幽霊になってでも会いたかったっていう…女房の名前?」

「……ああ。―――笑っていた。『海が塩辛いのは、お前が泣いている所為じゃないか?』とも言われた」

穏やかだが、少し寂しげな笑みを浮かべ、瑞秀は夢の中での顛末を語る。どうやら彼女の名を寝言で呟いていたらしく、それを団三郎に聞かれていたようだ。

「目的地、着いたってよ」

「そうか。今行く」

そう言って、掛け布団をめくって起き上がろうとするが、すかさず団三郎に止められる。

「湯浴みでもして、着替えてから行けよ。ドロドロだぞ」

団三郎に言われ、瑞秀は自分の胸の辺りを見、彼が言った意味に気付く。この状態のまま、甲板に出るのは不味いだろう。

団三郎は、瑞秀が眠りに落ちている最中、流した涙を拭ってやり、夢の中で彼女が瑞秀に言った言葉を呟いた事は、言わないでおこうと決めた。
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