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□君にあげるエピローグ
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頭上から降ってきた声は穏やかだったが、浅い眠りから目覚めるには十分だった。
「銀さん、お疲れさまでした。僕、帰りますから」
朗らかな少年の声が、寝起きのけだるさと相まって緩やかに耳に届いてくる。それでも銀時が瞼を閉じたまま素知らぬふりを続ければ、「銀さん」と新八はもう一度困ったように囁いた。甘ったるいような、それでいてどこか切羽詰まったような声音で。
「…銀さん?寝るなら布団ひいて寝て下さい。アンタ結構風邪ひきやすいんですからね」
聞いているのかいないのか、ともすれば寝てさえいるような態度の銀時に新八が心底呆れた声を出す。はあ、と一つため息を漏らした彼が見渡す応接室は、本来の目的を逸脱してひどく生活じみていた。
だがそれもその筈、中心に対で置いてあるソファーの片割れに寝そべった人物がここの主なので、仕方がないとも言えるだろう。
愛読書である漫画雑誌を顔の上に乗せたまま、男はぴくりとさえ動こうとしない。
「銀さんってば」
もう、と幾分焦れたように新八は腰に手を当て、部屋の時計をちらりと見上げる。時刻はもう夜の9時を過ぎていた。本来ならばとっくに新八の帰宅時間を過ぎている頃合いである。
その事態に少年は一際大きな声を上げた。
「いい加減起きて下さい!」
発声と、銀時の顔に広げ置かれているジャンプをつまみ上げるのが同時だった。途端、ぱちりと合った視線で男がとっくに目覚めていたことを悟った新八が、僅かに目を丸くする。
「…起きてたんですか」
「うん、起きてた」
「じゃあさっさと返事なり何なりして下さいよ」
一人でばかみたいです、と拗ねたような声で新八は続ける。そのせいか、つんと逸らした頬は微かに膨らんでいた。その様子をもっと見たくてしょうがなく、銀時はわざと緩慢な仕草でソファーの上に起き上がる。
ひそり、笑みの形に男の唇が緩んだ。
「新八くんの仕事取ったらかわいそうだと思った訳よ、優しい銀さんは」
「全くいらない気遣いです!」
したり顔で話す銀時といつもながらの会話を繰り返しつつも、やはり新八は焦ったように壁の時計を見上げている。そして銀時が起き上がるのを見届けるなり、もう一分でも惜しむかのように少年はくるりと踵を返した。
「じゃあ、僕は帰りますから。戸締まりして下さいね」
そそくさと、しかしながら弾むように新八が振り返る。やはりその声音はどこか甘い。それなのに一抹の焦りや不安も内包したような気配も感じる。どきどきと高鳴る鼓動を、とても隠し切れないような。
この不可思議な甘さと焦燥が混じり合ったような雰囲気と、それを少年が放つ瞬間を銀時はよく知っていた。
否、誰より新八の側に居る男が知らぬ筈がなかったのだ。
(アイツか)
即座に見知った男の顔が銀時の脳裏に浮かんだ。その途端、胸の奥が焼け付くような感覚を覚える。ひりひりと喉が渇くような憤りによく似た気持ちも。
そう思いつくと同時、銀時は今まさに辞去しようとしていた新八の手首をぐいと掴んでいた。低い位置から手首を捕らえられ、新八の肩ががくんと落ちる。
「…泊まってけば?」
何気ない声で呟く男に、少年は明らかに困惑した表情を作った。眉根をきゅっと寄せ、その大きな瞳に戸惑いの色を浮かべる。新八はそうして掴まれたままの手首を見遣り、小さく、だがきっぱりと首を振った。
「だめです…帰ります。姉上も今日はお休みなんで。ほら、神楽ちゃんも家に泊まってますから」
『女の子だけだと心配ですし』と言い訳のように零し、新八は掴まれた手首を降り解こうとする。だがいまだ掴まれたままの銀時の手に、ひどくばつが悪そうな顔をした。
(そんな顔すんなよ)
銀時がそう思うのは、お門違いというものだろうか。明日になればまた新八はきちんとここに来るだろう。また明日、いつもながらの笑顔を見せるだろう。
それなのに。
それでも新八のそんな顔を見ていると、何かが銀時の胸に沸々と込み上げてくることは確かだった。
その“何か”の正体だけは、どうしても分からないけれども。
新八は銀時の無言をどう受け取ったのか、ことさら明るい声を出した。
「たまには一人になりたいって銀さんよく言ってるじゃないですか。神楽ちゃんに言っておきますよ、銀さんが淋しがってたって」
柔らかな笑みと共にかけられた声は優しい。だが少年のその笑顔が柔和なだけ、銀時はひどく鬱屈とした気持ちを抱いた。
新八が漏らしたように、神楽が志村家に泊まること事態はさして珍しいことでも何でもない。少年の姉である妙と神楽はひどく仲が良いので、むしろ頻繁にあることだった。だが、だからこそ帰る、二人だけだと心配だからという新八の意見もまっとうそのものである。
しかし、依然として銀時の拘束は緩もうとはしない。
ただ代わりに、銀時はひそりと眉をひそめる。正確に言えば、ひそめるふりをする。
意外だ、と自分が心底思っているように。少年が己を真っすぐに信じていることに、畳み掛けて。
「ま、うるせーのがいねェと静かでいいな」
言い放った瞬間、新八がほっとしたように笑った。やっと帰ることができる、その安堵が笑顔に透けている。
いや、“やっと会うことができる”と言い換えるべきだろうか。
(あいつに?)
微かな苛立ちが沸き上がるのを抑え切れず、だが銀時は平然と新八の腕を離した。手首の拘束を解くと同時に大きく伸びをする。そして、さも何でもないことのように少年に言い付けた。
「じゃあ、布団敷いていってくんね?眠いから」
「またアンタはそうやってすぐ人任せにする。大体、今日だって一日ごろごろしてただけでしょうが」
銀時が和室の方を顎で示すと、新八はいつもの如く説教モードに入る。だがそれに甘んじる気も毛頭なく、男はけだるげにあくびを零した。そのままソファーの傍らに雑誌を追いやり立ち上がり、新八の頭をぽんと軽く叩く。
ムスッとしたように自分を見上げてくる大きな瞳と目が合った。
「固いこと言うなって。任せたぜ、新八」
『な?』と微かに笑えば、新八はぶつぶつと小言を言いながらも律儀に和室へと足を向けている。まだ何か文句を言いつつ、それでもせっせと布団を敷く姿はどこか矛盾していて面白い。その様子を柱にもたれて観察しつつ、銀時は少年に気付かれないように僅かに笑った。
往々にして、銀時から“任せる”と言われた事に新八は逆らえないのだ。
それは新八生来の真面目さも確かに関係するのだろうが、何より『銀時に頼りにされる』ということ自体に少年は弱いのだろう。いくらポーズであれ、銀時を御することに新八の自尊心がくすぐられるという事実を、当の銀時自身がよく知っていた。それを裏付けるものが、自分へストレートに向ける尊敬だということも。
「…はい、敷きましたよ」
ふとかけられた声に顔を上げれば、きっぱりと伸べられた布団の前に佇んでいる新八と目が合う。今度こそ、もう銀時には彼を引き留める術は残されていなかった。
それはすなわち、少年が“あの男”と会う序段になる訳だ。
事実、新八の顔には先程よりずっと濃い焦りの色が浮かんでいる。微かに赤らんだように見える頬が、蛍光灯の人工的な光の下で何故かひどく艶めいて見えた。
だからだろうか。
「会うんだ?」
ぽそり、何ともなしに銀時は呟いていた。主語も何もないその疑問符に、新八の眉が少しだけひそめられる。だが少年が話すより先に、銀時はある男の名前を口の端に上げていた。
「高杉」
銀時が言った瞬間、新八が目に見えて動揺する。『なんで』と唇が動いたが、強張った少年の声帯は音さえ立ててくれなかった。一瞬にしてさっと新八の顔色が青ざめる。血が冷えたようなその感覚に、信じられないような思いで新八は銀時を見つめた。
だが、少年が弁明を試みることは叶わなかった。
「っ…!」
どん、と敷いたばかりの布団の上に突き飛ばされ、新八は即座に起き上がる。しかし見つめた銀時の顔は至極いつも通りで、少年はびくりと凍り付いたように動きを止めた。銀時の顔には何の怒りや蔑みも浮かんでいない。だからこそか、新八はますます体が冷えるような感覚に陥る。
いっそ口汚く罵られた方がどんなにましだろうとさえ思えるほどに。
銀時はじっと身を竦ませたまま動けずに居る新八の足元に、そっと屈み込んだ。
「気付いてないと思ってたんだ、新八は?」
次の瞬間、その口元に嘘のように柔らかい微笑が浮かぶ。そのまま、『ダメじゃん、密通は上手くやんなきゃ』と呟いた声の調子や、平淡な赤い瞳もいつもと何ら変わりはない。だがそろりと頬を撫でられ、その指が首筋に滑ると、新八はようやく我に返ったようにびくりと肩を揺らした。
弁解すべく、必死に口を開く。
「違うんです、僕そんなつもりはなくて…!銀さんや神楽ちゃんを裏切るとか、そんなことは考えてないんです!ただ、あの…」
尋常ではない緊張にあるせいか、思いとは裏腹に少年の言葉は空回る。しかし突然ぐいと顎を捕らえられて、新八はそのよりしろすら失ってしまった。見上げた銀時の瞳に、ひどく焦った自分が映っているのが分かる。
「いいよ、別に。お前が裏切るとか、そんなんこれっぽっちも思わねェから。大体新八がそれはねーと思うよ」
そんな新八を見て、淡々と銀時は続ける。その声に少年はそっと息を吐く。分かってくれたのか、と一瞬だけ安心する。
新八は高杉にどうしようもなく惹かれてこそいるが、それ以上に万事屋を裏切る行為を重ねるつもりは決してないのだ。それだけは確かだから。
だがその次に放たれた銀時の言葉に、少年は動揺を隠せなくなる。
「ただ、俺が嫌なだけだよ。高杉でも誰でも、お前が別の男のとこに行くのが」
そう呟いた銀時にぐいと押し倒されて、少年は驚きに目を見張った。両手首を掴まれ、布団に縫い留められる。そのまま覗き込んできた銀時の顔は、逆光になったせいでよく見えなかった。
その陰りにふと思い出したのは、会う度こうやって自分を押し倒す男の姿だ。包帯から見えるその右目がひそりと細められる瞬間が、不意に今の光景に重なった。
そうして続けられる行為はひどく淫靡で、同時にひどく切なく、だけれど新八が拒めないことを知っている男はいつも愉快そうに笑う。男の望むまま、欲しいと新八が鳴くまで。その熱を一気に奥まで挿れられた少年が歓喜と快楽に震えるまで、取り留めなく。
その度に、こんな自分がいたのかと新八は男の背中に爪を立てながら思う。こんなこと許されないと分かっているのに、その禁忌にすら喘ぎながら。
だけれど、“それ”を銀時とするのは違う。
(だって、僕は高杉さんが…!)
高杉との夜を連想させるこの事態に、新八は必死になって足をばたつかせる。それだけは嫌だと、銀時とそこを越えるのは違うと本能が警鐘を鳴らす。だが腕にぐっと力を込めるも、銀時の腕力には到底かないそうもなかった。
震える声を気取られぬよう、少年は慎重に言葉を選ぶ。
「…銀さん、何するんですか」
「もう予想ついてんじゃねーの?」
間髪入れず答えを返され、半ば絶望に似た気持ちがじわりじわりと新八の胸の奥に広がった。それでもふるふると首を振れば、反対に銀時はゆるりと笑う。
「何で?」
残酷で、それでいて新八と同じ絶望を抱えたような笑いだった。銀時がこんな顔をすることを、少年は初めて知った。いつも自分が見ていた表情の裏に、こんな激情を隠していたことにも。
今まで一度として見たことがないような。
「う、…」
知らず、熱いものが一筋頬を伝っていくのが分かる。顔を下げた銀時がゆっくりそれを舐めとる仕草で、自分が泣いていることに新八は初めて気が付いた。
「や、嫌だよ…銀さん…」
半ばうわごとのように言うと、銀時はさも可笑しそうに笑みを濃くした。そうして男はとても優しい仕草で新八の髪を梳いた後、そっと少年の耳元に唇を近付ける。
「もう聞けねーよ。悪ィけど」
最後の望みを簡素に絶つその言葉は、いっそ淡々と新八の耳に響き、唐突に消えた。
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