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□Everything
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「…おい」

低く、凛と通った声が少年の後ろで響いた。じゃり、と地面を鳴らし、その声の持ち主が半歩前に踏み出した事が分かる。
それだけで二人の距離がぐんと近くなったことも。

立ち止まった途端に間髪入れず捕まったということは、後ろの住人もまた新八と同じように全力で走ってきたということなのだろう。だがその呼吸には僅かな乱れすらなかった。後ろから聞こえる静かな吐息が、夜気に溶け漂っていく。
そしてその声と呼吸の持ち主を、新八は振り返らずとも知っていた。

今一番、誰より聞きたくなかったその声。

だけれど今日一番、誰より聞きたかったその声。


「土方さん…」

囁くような声で彼の名前を呟けば、返答するようにぎゅっと手首を引かれた。掴まれた手首から、簡単に体温が上昇しそうになる。ひどく緊張していた。いつだって、土方と居ると新八の体感温度は知らず上がっている。肩の奮えからそれを男に気取られているだろうということも、悔しい。

だが新八は僅かに息を詰め、わざとゆっくり後ろを振り返った。

「こ、こんばんは」

「何で逃げた」

新八がいつものような笑顔を作ると、ねめつけるように訝しげな土方の眼差しと目が合った。大方、いつもの笑顔なのにいつもの少年らしからぬ行動が納得いかないのだろう。この男の観察眼を新八が上手くはぐらかせた事は、過去に一度足りとてない。

土方は新八の手首を掴んだまま、微動だにしない。およそ不可思議なものを見るような視線で少年をじっと見据えている。その片手にぶら下げたコンビニの袋からは、マヨネーズの赤いキャップが覗いていた。いつも吸っている煙草の箱のパッケージも、薄いビニールに透けている。こんな真夜中に男がコンビニに居た理由をそこに悟って、彼らしい品物選択にふと少年の口角が上がった。

「新八?」

それに気付いた見た土方が微かに力を緩める。一瞬だけ、男の表情から職務中にある険しさが消える。
しかし土方が続けようとした言葉は、当の少年によって遮られてしまった。

「…手」

ひどくばつが悪そうな新八の声がした。彼はそう言って土方の質問に答えることなく、掴まれたままの手首をじっと見遣るだけだ。端的に言い放たれた単語の不可解に、土方の眉間の皴はますます深く刻まれる。

男の鋭い眼光と相まってか、これでは職務質問や補導という類の雰囲気にすら見えないだろう。

「…あ?手がどうした」

思わず少しの苛立ちを隠せずに土方が聞くと、ずっと俯いていた少年が弾かれたように顔を上げる。その目がどこか潤んで見えて、男は不意をつかれたようにどきりとしてしまう。冷えた手でぎゅっと心臓を握られたような心地、と言うのか。
まさか、そんな顔をされるとは思ってもいなかった。

新八は思いあぐねたように逡巡した後、唐突に口を開く。

「手…離して下さい」

『いたいです』、と何故かひどく傷付いたような顔で少年に続けられ、土方は反射的に手を離していた。否、離さざるを得なかった。落涙こそないが、新八の目尻がほんのりと赤らんでいるのを見てしまったからだ。
だが離した瞬間、有り得ないことをしたと土方はどこか他人事のように考えている。

今まで取り調べの最中に「離せ」と言われ、素直に相手を離したことがあっただろうか。

…いや、ない。

どんな涙で切々と訴えられても、どんなに哀願されても、土方が目的を遂行するまで相手を逃したことはない。それが新八に言われればこんなにも簡単に屈している事実に、土方は知らず苦虫を噛み潰したような表情を作った(男がプライベートと仕事をナチュラルに混同するのは最早病気の類だ)。

だが自分が積み上げたそんな陳腐なプライドが瓦解するのを感じると同時、いつもは穏やかな少年が腹を立てている風なのは気にかかる。新八は僅かに頬を染めて、土方をじっと見上げていた。やはり、その目元もほんのりと赤い。青みがかった街頭に照らされて、その微かな朱はひどく鮮やかに見えた。

「悪かった。まさかお前に会うとは思ってなかったから、ついな。…あと少ししたら現場に戻んねぇと」

その視線から逃れるようにポケットを探り、土方は煙草の箱を取り出す。一本抜いてくわえ、愛用のライターで火をつけた。瞬間、凪いだ青い闇にぼんやりと明かりが灯る。その炎が一瞬だけ大きくなり、土方の鼻梁と、それに続く目元をほのかに浮かび上がらせた。次の一瞬に炎は消え、すがめるような眼差しと共に男は緩く紫煙を吐き出している。

知らぬ間にそれをじっと見つめていた自分に気付き、新八は慌ててパッと下を向いた。

「…土方さん、」

そのまま、消え入りそうな声でぽそりと呟く。
先程土方に向けて言った、『いたい』の意味を考えながら。

(痛い)

「今…、何時ですか?」

そして何事もなかったかのように、聞いた。

(もっと側に“居たい”)

あれはきっと手ではなく、心の痛みだと気付きつつ。


新八からの唐突な問いに微かに瞠目して、土方は左手首に嵌めた腕時計をちらりと確認する。ずいぶん年季が入ったそれは、真選組結成当時から土方が身につけているものらしい。そう新八が聞いた時に細めた男の視線は、どこか別のところを見ていた。どこか、新八が永遠に立ち入れない場所を。

そして、土方は微かに笑って新八の頭を撫でてくれた。新八の好きな、竹刀だこのある大きな掌で。
そこで新八はやっと、知らず知らず泣きそうな顔をしていた自分に気付いたのだ。


だが今、それを思い出すのは何故だろうか。あの時感じた切なさを、何で今思い出すのだろう。いつだって土方の大切なものに新八は触れることができない、そう感じるからだろうか。今日の誕生日すら。


(違う)

それだけは違う、と強く念じた。土方はいつでも誠実で、優しい。その優しさが裏付けるものが何かを新八は知っている。自分達を繋ぐものが何かを、新八は知っている。

それでも、

(…僕は、土方さんのこと何も知らないんだ)

不意に、ぎゅっと押されたように新八の胸は痛くなる。もう慣れた痛みだ。だけれど、そこを押しているものが何なのかだけは分からなかった。


「11時50分てとこだな。それがどうかしたか?」

土方は時間を確認するなり、さも当たり前のように聞き返してきた。それに新八は一瞬息を詰まらせる。くらりと地面が揺れたような感覚さえ感じたが何とか堪え、少年は喉奥から搾り出すような声を出した。

「どうしたって…、今日が何の日か知らないんですか?分からないんですか?」

「今日?さーな、非番なのに仕事してるって事ぐらいしか分かんねぇ」

そう言って、土方は袋を持っていない左手で己の髪を乱雑に掻き混ぜた。くしゃくしゃと乱れる黒髪は新八のものとは違って若干の癖がある。けだるげに吐き出された煙草の煙が、微かに新八の鼻先を掠めていく。

事実、朝から酷使された男はひどく疲れているのだろう。薄い倦怠感がその体に漂っていた。眉間に寄った皴も先程からそのままだ。そんな土方だからその答えはいかにも彼らしく、だからこそひどく新八は悲しくなった。

考えるより先に、言葉が思わず口をついて出るほどに。


「…ばか!」

言いながら、どうしようもなく目元が熱くなるのを感じる。じんと溢れるような熱の放出を堪えて、鼻腔がつんと痛くなる。土方はそんな新八を呆気に取られたように見つめていた。こんな風に取り乱した己を見られるのは、初めての事だった。

それでも、溢れてくる思いは止まらなかった。

「土方さんのばか!今日はアンタの誕生日でしょ!?」

言い放った瞬間、土方の目が僅かに見開く。ようやく全て理解したように、男が口を開いた。

「そうか、それで…」

『五日、会えますか』と新八に問われた日の記憶が土方の脳裏に蘇る。忙しさにかまけてすっかり誕生日など失念していたが、それは少年にとってどんなに重要な記号であったことだろう。初めて交わした約束だったのだ。それを守りたいと切望していた土方にも十分過ぎるほど一大事ではあったが、少年のそれとは根本から意味が違っている。そんなことを、土方は今になってようやく悟った。

今日は、誕生日は、自分だけのものではないということにも。


「…約束、」

だが土方が言い終わる前に新八はもう話し始めている。再び簡素に呟かれた単語に、男はいよいよ煙草を口から落としそうになった。煙草どころではない、右手に握ったマヨネーズの袋もだ。

こんなこと、普段の少年ならば絶対に有り得ないだろう。新八は誰より気使いができるし、無論土方の話を聞かないということもない。こんなふうに怒ることすら。

しかし有り得ないと思う自分がいかに普段彼に甘えているかを感じ、土方はふとそんな己を苦々しく思った。

(聞いて呆れる)


何が誠か、と思う。いつ死ぬか分からぬ己の体はやれないが、己の心は少年のものだと誓いを立てたのだ。いつでも真選組と剣に誠を誓ってきた男だが、それもまた確かな事実だった。
なのに、自分は無意識にも少年の優しさに甘えている。それを是としている。彼が本音を零すことに、驚きを隠せないでいる。いつだって少年の笑顔を望んできたのは、誰でもない自分なのに。


新八は土方の無言を発言の催促と受けとったのか、とつとつと話を切り出した。

「約束、しましたよね」

「ああ、したな」

新八は一瞬だけ俯き、再び決意したように顔を上げる。瞬間垣間見えたうなじの白さが、何故か胸に痛い。ちくりと刺さるような、それでいて焦げ付くような胸の痛みはおよそ土方という男らしくない。だがそれが新八に起因するものと考えれば、痛みすら甘くも感じるのが不思議だった。

少年は、その大きな瞳でじっと土方を見つめている。普段は様々な表情を見せるそれも、今は湖面のようにしんと静寂に凪いでいた。

「約束はもういいんです。だって土方さんの仕事は江戸を護ることだから。僕だって、護りたいものがあります。大切なものが、たくさんあります」

でも、と囁くように小さな声で新八は続ける。

「土方さんの誕生日、お祝いしたかったんです。しょうがないって分かってても。生まれてきてくれて、ありがとうって。…だから今日が何の日か分からないなんて、そんな淋しいこと言わないで下さい。もっと自分のこと、大切にして下さい。僕だって、土方さんの周りの人だって、土方さんのことがすごく大切なのに。だから…」

だから、ともう一回繰り返した少年だが、これ以上は言葉にならないのだろう。「生意気な事言ってすみません」とすぐに一つ頭を下げる。いかにも丁寧な、少年らしい仕草だった。
顔を上げた新八が見せた、その茶色がかった大きな瞳にもう涙の気配はない。言いたいことを告げられた、きっぱりとしたそんな一条の光を宿している。


それを見た瞬間、もう何も考えられず、土方は少年を抱き寄せていた。


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