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□Everything
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――午後11時30分。


少年は自室にある掛け時計をじっと見上げ、そっとため息を吐き出した。寝巻きの浴衣のまま、文机に頬杖をつく。すう、と大きく息を吸い込んだ。

そのまま吐き出すようにして、一言。


「ばか」

だが言って早々、後悔した。少年がぽつりと囁いた言葉は、今ここに居ない男に向けた文句だからだ。その男が居ないならば何の意味も成さない、そんな類の言葉を吐いてしまった自分に暗澹たる気持ちさえ覚える。しかし新八がこんな嫌悪感を感じるのは、何も男に対してではない。

「…ばか、」

分かっているのに、再び呟いてしまう自分に。
それでもあと残り30分に期待してしまう、自分に。

(ばかは僕だ)


―…時計の秒針はカチカチと正確に時を刻んでいる。




今日が来る日を、新八は一週間程前から日毎指折り数えて待っていた。今日、五月五日をどんな風に過ごそうかと、毎日毎日飽きもせずに考えていた。昼間万事屋での家事の合間に考え、夜、姉を仕事に送り出しては考え。中には、日がな一日そればかりを考えていた日だとてある。

それなのに、今の新八はただ終わっていく“今日”を茫洋と眺めていることしかできないのだ。


(そんなのって、あり!?)

そう思う度に憤慨したような気持ちを覚える半面、しょうがないという諦めにも似た感慨が少年を包む。

ここ最近、新八は街中で黒い隊服姿を見かける度に視線で追ってしまっている。彼に連想されることを、無意識に探している。そんな自分が浮かれ過ぎていたのかもしれないとは思うのだ。期待し過ぎていたのかもしれないと。
しかしそんな風に思い直す度、諦める度に、初めて勇気を振り絞り、彼に問いただした時のことが脳裏にまざまざと蘇ってくる。


―『五日、会えますか』


新八がそう聞いた時、男は微かに目を見開き、驚いたように口を開いた。その途端にくわえていた煙草が落ちそうになり、慌ててくわえ直した仕草すら新八は昨日の事のようによく覚えている。そんな彼の驚きの所以は、おおよそ新八から“会いたい”と申し出たこと事態が非常に希有だったからに違いない。


男は普段、約束をほとんどしない。それは彼がいつ何時でもどんな事態でも、命を懸けられることを、その覚悟を常に持つことを生業とした職務についているからだろう。先を見据えることすら躊躇われる任務だとて何回もこなしてきた男には、それは最早生きる標のようなものだからかもしれない(事実、刀の鍔に指を掛けるのが癖になっているような男だ)。

だけれど限りなく厳しい仕事ながら、男が己の魂として護るそれを、真選組を、少年は批難することがどうしてもできない。新八にも大切なもの、護りたいものがある。
それが痛い程に分かるから。

それに、新八は知っている。男が約束しないのは、彼なりの優しさだということ。
大抵破る結末になるだろう約束を重ねて、新八を傷付けるのを恐れていることを。

それでもあの時、彼は言ったのだ。初めてと言っていいくらい、真摯な視線で「会いたい」と告げた自分に。


『次のお休みは、空いていますか』

『ああ』

『…じゃあ、会えますか?』


簡素な質問をぽつりぽつりと繰り返したつもりだった。それでも慣れない約束で真っ赤になった新八の頭を撫でて、男は言った。

『いいぜ』

その瞬間ふと唇が綻んだように見えたのだって、決して新八の見間違いなどではない。男は確かに笑って、初めて自分に約束してくれた。

彼が、土方が初めてくれた、“約束”だった。

それなのに。

「――あああ、もう!」


朝自宅へとかかってきた電話の内容を思い出し、新八はどんと大きく机を叩く。叩いた拍子に、机の上に出しっぱなしにしてあった筆がころころと転がった。それはそのままぽとりと畳に落ちたけれども、今の少年には拾う気すら沸いて来ない。


―『悪ィ、仕事が入った。現場に直行しなきゃならねぇ』

朝方に土方から掛かってきた電話は、約束が反古にされたことを簡潔に伝えていた。

―『え…』

そんなことは慣れっこの筈なのに、何故か今日ばかりは新八の声も震えてしまった。しかし男が話す背後からは、怒号のような隊士達の声が響いて漏れ聞こえてくる。現場は緊迫した事態にあるのだろう、ぴりぴりと刺すような緊張が電話越しにも伝わっていた。

そんな土方が居る状況と、安穏とした朝を満喫する己との絶対的な距離を感じ、新八はそれきり何も言えなくなった。

その内呼び止められでもしたのか、男からのほんの短い謝罪の言葉を告げて電話は唐突に終わった。新八が今日会いたかった理由など、男に向けて呟くひまも与えず。
二人を隔てる距離を、遠くしたまま。


「…土方さんの、ばか」

再度、小さな声で呟く。

(ばかは、期待してた僕だ)

分かっている。新八だとて、分かってはいる。いついかなる時でも、仕事を優先するのが土方だ。男が護りたいもの、一番大切なものは真選組や江戸の町であって、こんなにちっぽけな約束ではない。そう痛いくらい分かっている筈なのに、朝の出来事を思い出す度に言ってしまう己が情けなかった。いつも土方に子供扱いされるとむくれるくせに、やはり自分はまだ紛れも無く子供なのだと思う。

土方と離れた年齢の分だけ、ずっと近くに行きたいのに。

それでも客観的に見た二人の距離は、主観で感じるよりずっと遠いものなのだろう。募る想いとは、裏腹に。どうしようもない密度で。


それなのに、

(…何でこんなに好きなんだろう)


「ばか」

再び小さな声で呟き、少年は手元にあった財布を握り締めた。簡単な羽織りだけ纏って、文机の前に立ち上がる。このまま自室に居ると、充満した自分自身の想いに押し潰されてしまいそうだったからだ。かと言ってこんな真夜中、他の人員の迷惑を省みずに万事屋に行ける少年ではない。

近くのコンビニでも行くかと少年が考えるまでに、そう時間はかからなかった。


―――…



もう五月とは言え、深夜に吹き抜ける風はやはり冷たい。新八は襟首をかき抱くようにして前を合わせ、裸足に草履だけ履いて出て来たことを少し後悔した。それでも規則的に足を動かし続ければ、コンビニの人工的な明かりが見えてくる。

新八の家の近くは旧市街地というのか、割合大きな家が多い辺りだった。そこでのコンビニ建設は中々難しいのか、店舗数は万事屋がある地域よりずっと少ない。窓から漏れる煌々とした明かりは人々を引き寄せるように瞬き、目に痛い程だ。

少年はその明るさに一瞬たじろぎ、だがぐっと力を込めて扉を押そうとした。


「…!!」

しかし途端に、その手が止まる。不意に向けた視線の先、レジで会計を終えたばかりの男とふと目が合ってしまったからだ。

見慣れた黒い隊服に、鋭い眼差し。禁煙の店内では吸えないからか、いつも口元にある煙草はない。だけれど、新八が見間違える筈がない。


あれは、

(土方さん!!)


だが男がこちらに気付き、その形の良い眉がひそめられた瞬間、スタートをかけられたように新八は踵を返していた。途端、半分押し開けられていたドアが反動によって後ろ手にバタンと閉まる。そのまま、少年は全力で駆け出していた。自分が何から逃げ出すようにして走るのかすら、分からぬままに。

ただ闇雲に、必死で夜の町を駆けた。


「はあっ…はぁ…」

全速力で足を動かし、コンビニの明かりが届かないところまでひた走る。店から離れるごとに光は薄れ、闇は深まっていく。そうやってしばし道なりに走り、新八は一つ目の角を曲がったところでようやく立ち止まった。はあ、と大きく息を吐き、隣にある電信柱に手をかける。まだ心臓は早鐘を打つように鳴っている。

だが唐突にその手首を後ろから捕らえられ、新八は思わず声を上げそうになった。


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