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□もしこれが、恋ならば
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いつもならさっさと引き上げるところだが、何故か土方はそうする気にはならなかった。そのままぐるりと家の裏手に回り、敷地内にある道場の脇ではたと立ち止まる。

耳を澄ませば、しんとした空気を裂くように竹刀が風を斬る音が聞こえてきた。
屯所で隊士達に剣の指南をしている男にとっては、ひどく聞き慣れた音である。


開けっ放しにしてある扉に手をかけて、道場の中を覗いた。視線を僅かに巡らせるなり、こちらに背を向けるようにして新八が立っている事に気が付く。少年はいつもの着物に袴姿ではなく、運動するに相応しい胴着を着ていた。

鍛練でもしている最中なのだろう。


「…おい」

注意深く一声声をかけた。だが新八はまだ竹刀を握り締めたまま、微動だにしない。そのまま素振りを繰り返す彼はよほど集中しているのか、後ろ姿からでも十分に気を張っているのが伝わってくる程だった。

「勝手に邪魔するぜ」

もう一声かけて靴を脱げば、少年はやっと我に返ったかのようにこちらをパッと振り向いた。瞬間、信じられないものを見た時のように目が泳ぐ。

「えええ、土方さん…!?何で!?」

慌てふためきつつ、新八が背中に竹刀を隠した。土方程の手練に己の鍛練を見られたのが恥ずかしいのかもしれない。だが男は構うことなく大股で近付き、ポケットの中にあるものを少年に翳した。

「ほら、約束のもんだ」

言うなり、少年の胸に押し付ける。そうされるともはや対処のしようもないのか、新八はようやく手を体の前に回した。うやうやしく捧げ持つようにして、じっとそれを見つめる。
掌に落とされたのは、カラフルなパッケージの駄菓子だった。

それも、土方には到底そぐわない甘い甘いチョコレート。


「これ…」

男が持ち出したにしては随分可愛らしいパッケージの駄菓子を見つめて、新八の視線がそれと土方の顔とを往復する。真っ直ぐ見詰められる瞬間のこそばゆさに、土方はすぐに少年から目を逸らした。

「山崎にそういう事させんなってお前が言っただろうが」

言いながら、いかにも少年らしい気の使い方だと思っていた。とてもではないが土方の神経ではそういう風に気は回らない。

その取って付けた様な理由の強引さにも気付かないのか、新八はただぱちぱちと瞬きを繰り返してそれを見ていた。

見れば見る程大きな瞳だと逆に感心する。黒目がちなそれは不思議に茶色がかって、人懐っこさとどことない温かさを感じさせた。


その目にほんのりと笑みを浮かべ、新八がまた土方を見上げた。少年らしい笑顔を向ける。

「言いましたけど、まさか土方さんが直々に来るなんて思わなくて。近藤さんも来てないのに、珍しいですね」

そのままにこりと笑われただけなのに、何故なのか土方は言葉に詰まってしまった。不意に胸のざわめきが大きくなったような気がしたからだ。

その事象が分からず、ばつが悪い思いでがりがりと頭を掻いた。

「…たまたまだ、今日はこっちが巡回担当だった」

まさか敢えてこちらに出向いたとは到底言い出せずに、男は幾分言い訳めいた言葉を発した。しかしそれに気付いた風でもなく(元々少年には人を疑うという観念がない)、新八は竹刀を置いて袖を捲る。彼はそのまま紐を使って小袖を後ろで素早く纏めた。

すんなりとした腕の先に伸びる手で、額に滲んだ汗を拭う。

「そうなんですか、でもご丁寧にありがとうございます。今お茶入れて来ますから、そこの縁側で待ってて下さい」

土方に向けて跳びはねるようにしてお辞儀し、少年はパタパタと母屋へ駆けて行った。後に残ったのは先程まで新八が握っていた竹刀と、男が散々四苦八苦して持ってきた小さな駄菓子だけである。

その不思議な符号に少しだけ笑い、土方はゆっくりと志村家の縁側に回った。





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