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□君という花
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『来ないで!私の弟に近寄らないで!』

 両親を亡き者にした相手をすぐ目の前にして恐ろしくて恐ろしくてたまらなかっただろうに、あの晩の姉が必死で新八を護ってくれようとした事を、あれからゆうに百年は経っていても未だに新八は覚えている。
 姉は懸命に弟を自分の背中に隠して、逃げるようにと言ってくれた。

『逃げなさい新ちゃん!どうやってでも、あなただけは生きていくの!』

 だがそれは結局、姉の最期の言葉になった。
 新八が産まれた時からずっと側にいてくれた、二つ年上の姉。誰より強く聡明で、そしてとびきり美しかった自慢の姉は──新八の目の前で命を奪われた。

 あの時新八を振り返った姉の決死の表情や、彼女の最期の言葉。
 命を賭して自分に伝えてくれたそれらは何ら色褪せることなく、抜けない棘のように、今でも新八の胸に深く突き刺さっている。



 しかし、話はここでは終わらない。むしろ本当の物語はここから始まった、とさえ言っていいかもしれない。
 姉の最期の願いも虚しく、彼女の最期を看取ってから僅か数分の後に、確かに新八は死んだのである。姉と共に、両親と同じように死んだのだ。
──否、“死んだ筈”だった。


 その時、確かに新八の鼓動は止まり、脈拍も途絶え、生物として活動する為に必要な体内の器官は全て沈黙した。
 少年は確かに、確実に、あの悪夢の晩に死亡したのである。

 だけれど死ぬ間近の新八が、薄れゆく意識の中で気付いた事がある。両親を斬り殺し、その返り血を浴びた男の瞳は、夜の闇の中で赤く輝いていたような気がすること。そしてそのまま姉弟のところへやってきた男は、姉には刀を振るわずに羽交い締めにし、おもむろにその白い首筋に歯を立てていたこと。

 そして恐怖で身を凍らせる新八の耳元で、何かを啜るような、咀嚼するような、じゅるじゅると醜悪な音が執拗に響いていたこと──






 その悪夢のような記憶の欠片は、のちに目覚めた時も重く意識の底を漂っていた。
 家族を殺した男の顔ははっきりと見た記憶があるのに、麻痺したような鈍痛を抱える頭では既に曖昧なものになっている。若い男だったか、年老いた男だったかすらも今は思い出せない。

──……思い出せない?

 何かを思い出そうとするのは、生きている人間のみに与えられた権利である。
 次の瞬間、新八はハッと目を見開いた。そして震える自分の手を持ち上げて、それが動くことを確認した。

──生きている。ちゃんと自分は生きて、手を動かしている。

 唐突な安堵にどっと涙があふれた。どう考えても死んだものと思ったのに、奇跡は起こったのだ。姉が命を賭けて助けてくれたとしか思えない。
 だけど己が生きていると確信した瞬間、新八の意識は安堵から絶望へと塗り替えられた。父、母、姉──最愛の家族の亡骸が横たわる、夥しい血の海の中で。


 飛び上がるように起き上がった少年は、血に塗れた家族の死体の中で恐怖に慟哭した。いっそ狂ってしまった方が楽なほどに思考は黒く塗り潰され、ただただ泣き叫んでいた。死んでいることが明白な父の遺体に縋り、母の骸に身を寄せ、抜け殻となった姉の胸に顔を埋めて咽び泣いた。
 だけれど、いつだって年端に似合わない聡さを持っていた少年が『その事』に気付かない筈はなかったのだ。


──どうして、自分だけが生きているのだろう?

 泣き叫んでいる最中でも、ふと単純な疑問が頭をよぎった。
 あの時両親への凶行を果たし、続いて姉を襲った後の男は、確かに自分の首にも歯を立てていた。骨張った男の手が新八の薄い肩をがっしりと固定し、柔らかな首筋の皮膚が突き破られた感覚は未だに生々しく残っている。

 そして徐々に薄れていく意識の中でも、新八は立ち去る男の後ろ姿だけははっきりと見たのだ。男は確実に新八にも手を掛けた。しかもこんなに残虐なやり方で両親や姉を惨殺した男が、新八だけを取り逃がす訳はないだろう。


ならば、何故自分だけが?



──『……っ!!』


 それは予感だった。
 新八はすぐに手を首筋に這わせた。指先に伝わる二つの咬み傷を確認した後で、恐る恐る己の胸にも手を伸ばす。
 通常であれば、普通の生きている人間であるならば、そこは温かな鼓動を刻んでいる筈である。そうでなければ人間は生きてなどいけない。ましてや今の時代と違い、新八の生まれた明治の世のことだ。当時最先端の医療だとて、心臓を動かさずして人を生かしておく事など出来ない。
 出来るはずがない、ある訳がない、そんなこと。

 そんな──化け物のようなこと。


……だがその後、再びの勇気を鼓舞して胸に手の平を押し当てた新八は、いよいよ本当の狂気を味わう事になったのである。家族の骸を発見した瞬間を遥かに超える、大きな大きな恐怖を。


──『なんで……!?』

 新八の心臓は少しも動いていなかった。そんな筈はない、おかしい、といくら確認しても無駄だった。心は著しい恐怖に震え、動揺に波打っているのに、それに伴う激しい鼓動の高鳴りは一切感じられない。
 手首を取って脈を測ってみても同じ事だ。人間であればある筈の脈拍、鼓動が止まっている。確かに新八は死んでいるのだ。

 だけれど、それなら何故自分の目は見えるのか。電球も点さない家屋の闇の中なのに、何故こんな風にハッキリと家族の骸が見える?

 そして──どうして、こんなにも自分は空腹を感じているのだろう。夥しいほどに流れた血の海の中、このおぞましい景色の中で、どうして。
 死ぬ前までは確かに吐き気を覚えた死臭を、このむせ返るような血の匂いを、普通の人間であれば耐えられないようなこの臭気を、どうして今の自分の嗅覚はひどく甘いものとして感じているのか。

 最愛の家族の死骸を前に、自分の本能はどうして真っ先に喉の渇きを覚えるのだろう。


どうして、どうして、どうして……




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