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□薬指にくちづけを
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 あぶらぜみがけたたましく鳴いている。

耳の奥までまっすぐ突き刺さってくるように聞こえるのは、寝転がって真横を向いているからだろう。うるせえ、とぼんやり思いながらも意識はゆるゆると浮遊していって、うとうととまどろみながら僅かに身じろぐ。小さく息を吐くと、頭と密着したやわらかな感触もつられて動くのが、袴の生地越しでも分かった。


「あ……起こしちゃいましたか?」

 ごめんなさい。

謝りながら、細い指が高杉の前髪をかきあげた。左目を覆った包帯を、なめらかな指先がやさしい仕草で撫でてくる。

僅かに視線を巡らせた室内は、どこか気だるく、あまやかな雰囲気に包まれていた。すだれの隙間が眩しく光って、幾筋もの金色の描線になっている。
夏の午後の陽光は、どうしてこんなに甘い感じがするのだろう。



「テメーのせいじゃねえ……寝ちゃいねェよ」

小さくあくびをしながら、高杉は事も無げに言う。実際、ほんとうに惰眠を貪っていた訳ではない。ただとろりとまろやかな眠りの淵を、少年の膝の上で緩くたゆたっていただけだ。それでも、こんなふうにまどろむこと事態も随分と久方ぶりだった。
自分を紐解く瞬間を他人に任せるのが、滅法苦手な男のことだ。むしろ己の領域にむやみやたらに踏み込もうとする人間は憎悪に値する、と言っても差し支えない。

けれど少年だけは、こんなにもやわらかに、するすると容易く入り込んでくる。
――それをゆるしているのは、紛れもない高杉自身だ。



「うそ。寝てましたよ?」

 少年が微かに目を見開いた。
手のひらはまだ、男の額にやわらかく置いたまま。

「外がやかましいからなァ。寝られやしねえ」

そう言って身体を反転させ、高杉はぞんざいな所作で仰向けになる。それに呼応するように、外のあぶらぜみが声を大きくした。残された短い余生を、短いとも思わずに鳴いているのだろう。

ただひたすらに、いのちの夏を謳歌しながら。

「蝉くらい、鳴くでしょうよ。いいじゃないですか、夏なんですからね」

やさしく微笑んだ少年は、まるで大きな猫でもあやすように、高杉の頬をゆっくりと撫でた。男より少し小さな手の指先には、滑らかなそこには到底ふさわしからぬ、かたい剣ダコが常時ある。

その理由はいたってシンプルだ。いつ何時でも、少年が剣を手放すことをしないから。いつ何時でも、彼が鍛練を欠かさないからに違いない。高杉の隣に立ち、そのいのちを護るために。

実際、こんなふうに戯れていても、少年の剣は即座に手に取れる範囲に置いてあった。黒い鞘に包まれ、金色の鍔の付いた長刀が、陽に灼けた畳の上に無造作に転がされている。やわらかな陽光を浴びていてなお、それは圧倒的な存在感を放っていた。場違いも甚だしい。

けれど、心中立てにも似たその“誓い”のあかしが、高杉をいつも恍惚とさせることは間違いのない事実だ。



「テメーはあれがうるせェとは思わねえのか?」

頬に寄せられた指先にくちづけて、男は薄く笑う。あれ、と揶揄するのはもちろん蝉の声だ。

しかし、かまびすしいそれを煩わしく思うのに、ふと唇が緩んだ理由はいったい何故なのだろう。不思議と気分が悪くないのは、己の頬を撫でる、まだ少し幼い指先がいとおしいからか。それとも、あまりに少年らしい言い草がおかしいからか。もしくは――そのどちらもか。

「もう、あなたって人は相変わらずなんですから。……蝉だって、音量を絞るのは難しいと思いますよ?」

口を開けば、たしなめるような声音で諭された。少年はやさしい。慈愛に満ちている、とも言えるだろう。自分を育み、慈しんでくれた世界を、根本から愛しているのだ。
どこまでも、真っ直ぐに。

それが少年の根底にあるなら、人を斬り、壊すことでしかなし得ない誓いを掲げる己が、ひどく罪深いように思えてくるのがいつも不思議だった。そんな感情はとっくに棄てたとばかり思っていたのに。
もっとも、そんな自分に少年を縛り付けておくことが正解かどうかは知らないし、考えたくもないのだ。そもそもそれを考えること事態を、高杉はとうの昔に放棄している。

もう何もないと感じていた世界の片隅で、ただひとり――この少年を愛した時から。


ただ、今の高杉に分かっているのは、一つだけだった。自分は間違いなく地獄に堕ちるだろう、ということ。

それとももう既に、堕ちている最中かもしれない。この咎が、己を焼くこの灼熱が、いつか必ず自分自身を滅ぼすのだと高杉は確信している。傍らの清廉な少年に消えない罪を負わせ、足枷を嵌めた、その罰を受ける日が来るに違いない。

まろやかな夏の午後を愉しみながら、高杉はふと真逆の、破滅的なことを考える。けれども、同時に深い愉悦を覚えるのも間違いのない真実だった。そんな少年の、新八のすべてが、自分の手に委ねられていることに。
それで地獄に堕ちようがかまわない、とすら、思えるほど。



抗いがたい愉楽は、いつでも禁忌と裏表にぴたりと貼り合わせられている。罪とされる林檎を齧り、エデンの園を追われたアダムとイブがいい例だ。

――それを味わう快楽を知ってしまえば、もう一歩足りとて後戻りはできないのだから。







「新八」

ひそり、囁くように少年の名前を口にした。

「何ですか、高杉さん」

すぐに返事をしてくれる新八の従順さが、今はひどく心地好い。いつからか常時渇いている男の心を潤すのは、この世界ではもう少年だけだった。


 地獄のような光景を幾度となく見て、仲間の屍を越え、その最果てに立った時に、何もかもをなくした、と思っていた。もう自分に遺されたものは、この憎悪の灼熱しかないと。
今後、どんな享楽へ身を投じても、どんなに美しいものを見ようとも、永遠に消えはしない。この身を焼き尽くすまで、煉獄の炎は燃え続けるのだ。禍々しいその熱に、死ぬまで自分は侵され続けていく。呪われたさだめ。


故にいらないと感じていた“その”感情。
――もう新八を介してでしか、かたち成さないその気持ち。

さらさらと掌を滑り、こぼれ落ちていったものの中で、高杉がまだひとつだけ持っていた“人”であるあかしが、この少年だった。




そう遠くもない過去に少しだけ思いを馳せ、それをためらいなく打ち消してから、男はひそやかに笑った。

「……名前で呼ばねェのか?」

何故か少年が無性にいとしくなって、睦言のように低い声音でねだる。
それに新八は、やや困ったような顔をして眉尻を下げた。何かを気にしている顔だ。命令か――恋い慕う男のいつもの戯れか、どちらだろうと。

散々に迷ってから、思いきったように唇を薄く開く。

「……し…、晋助さん……」

でも請われたことに素直に従えど、戸惑いを隠せない声は徐々に小さくなり、不安定に揺れていた。音量を調節する為のつまみを、ゆっくりと微小に絞るように。

隠しようもないほど頬を赤くした少年に、高杉は意地悪く笑ってみせた。いつものように、くつくつと喉を震わせる。

「まだ慣れねえのか?」

「だって」

新八の拗ねた声は、恥ずかしさからかどこか非難を含んでいる。でも、それ以上に特に言及する気はないのか、もう口をつぐんでしまった。

「慣れろよ」

けれど、高杉が鷹揚に言えば、新八は大きな瞳をくるりと回してこちらを見遣ってくる。

「あの……総督命令ですか?」

「そうだ」

頷くと、職権乱用、とやさしく抗議された。あまえるようなその口調で、少しも本気ではないのが分かる。





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