見本

□見本
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ぽうっとなった気分を入れ替えるべく、差し出されたカップを傾けた。
紅茶を口に含んだ瞬間に鼻から抜けたのは、ベルガモットのさわやかな香り。喉を滑り落ちる熱さに、目を閉じた。
 彼らが優しく在るのと同じ分、幸せな夢を見ている気分になる。幸せで幸せで、だからこそ悲しい夢だ。これが現実でない以上、どんなにここにいたいと願っても叶わない。せっかく会いたい人にこうして出会えたというのに。彼のいない現実にも戻らなければならないなんて。今が幸せである分、そのときが、悲しい。
恥ずかしがらずに、もっと色々なことをやっておけばよかった。彼の部屋で二人きりで過ごしたり、夜の散歩や特訓をするだけでなく。もっと普通の、何処にでもいる恋人らしいことを。
そうすれば、こんなにもきりきりと胸を締められることはなかったに違いない。後悔が、邪魔をする。
「アリス、大丈夫? 舌火傷しなかった?」
 だったら、せめて。笑おう――と、葛馬は思った。
現実の世界では出来なかったことを、今。少しでも楽しむために。この夢のような時間を、少しでも良かったと思えるように。
 本物の彼には、もう二度と会うことは出来ないけれど。同じ温かな夕焼け色の瞳を自分に向ける、優しい人の表情が憂いに陰らなければいい。
「ヘーキ。ンなヤワじゃねーって。つーか何だよ。アンタ帽子屋のくせに、帽子被ってねーじゃん!」
「アリス、これにはね、海より深く山より高い理由があるんだよ……」
 言い淀むスピット・ファイアの隣で、黒炎が小さく噴き出した。
「本当のことを教えてあげたら如何です? そんなに勿体ぶるほどの理由ではないでしょう」
「僕にとっては重大な問題だよ」
 まるで正反対の二人の意見に、葛馬がきゅっと眉を寄せた。二人ばかりが知っていて、自分だけがのけ者にされている気がしたからだ。子供っぽいとは思うが、なんだか少し悔しい。そう訴えたら、スピット・ファイアが大きく目を見開いた。
「のけ者だなんて、そんな……。ねぇ、アリス。僕が君にそういうことをすると思うかい?」
 訊ねる口調に、大きく頷いた。本人にその気はなかったとしても、葛馬は実際そう感じたのだ。
 不安げに揺れる青い瞳で上目遣いをされ、青年は額に手をやり嘆息する。困った。早く教えてあげないからですよ、と黒炎に耳打ちされたが、彼の脳には届かない。
「本当に、そんなつもりじゃなかったんだよ?」
「だったら、さっさと教えろよ……」
 長い睫毛を伏せ、語尾に行くほど弱くなる声。無意識に葛馬がしている行動が、実はスピット・ファイアの罪悪感をちくちく刺激しているなど。彼は全く考えもしなかった。
「言うよ。言うから、そんな顔しないで」
 懇願されて初めて、葛馬は自分の中にも嫉妬心というものがあるのだと気付いた。
(俺、今……。黒炎さんにヤキモチ妬いた?)
 心の中で唱えた途端、頬に熱が灯った。
二人の仲は、葛馬よりもずっと長い。しかし、どんなに親密であったとしても、そこに恋愛感情はないのだと、重々理解していたはず。なのに……。
(俺、心せまくね? いや、久々に会ったからだよな。うん、きっとそうだ! 久々だから、さ……)
 二人きりだったら、もっと良かった、かも。様々に変化する感情に、自信なく恋人を見つめた。
 初めは、会えただけで良かった。自分たちの関係を知る者を交えて、という現実世界ではあり得なかったことが珍しく。新鮮だった。それはそれで楽しい。楽しい、のだけれど……。
 視線に気付いたスピット・ファイアが、片方の眉を下げた。どうやら、なかなか言い出さない理由について急かされていると勘違いしたようだ。本当に、時々びっくりするほど抜けている。そんな彼を、独り占め出来たらと思った。
 自分で考える以上に、どうやらスピット・ファイアが好きらしい。見つめているだけで、どきどきと速度を速める鼓動。それが恥ずかしくて、ついそっぽを向いてしまった。
アリス……、と力無く呟いた青年に対して、いつものように「カズ君」と呼んでほしい。なんて、思ったのは内緒だ。
「僕が帽子を被らないのはね、髪が潰れるからだよ。何て言うか……、色んな人が『燃え頭』って呼ぶくらいだから、これを崩すわけにはいかないかなって」
 決して君をのけ者にしたいんじゃないからね。と、再三同じことを繰り返したスピット・ファイアの言葉を理解するには、ほんの少し時間を要した。言い訳がましく告げられたが、つまりはセットを乱したくない、そういうことだ。
「くっだらねー……」
「でしょう? ほら、ご覧なさい。貴方が気にしすぎなんですよ」
 燃え上がる炎のように完璧なセットを施された赤い髪と、同じ色の瞳をまっすぐ向ける真摯な表情を見比べ、葛馬は脱力した。華奢な体がずるっと椅子の上を僅かに滑った。
まったく、この恋人ときたらこれだから困る。
 

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