・短編H・
□大人の苦悩
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「げほげほっ…」
聞こえてきた辛そうな咳に手を止める。
カーテン一枚挟んだ向こうに体調不良というわけでなく寝てたはずの生徒を思い出す。
「鞘師、風邪?」
仕事をしていた机を離れて、カーテンの中に入っていく。
さゆみの仕事が終わるのを待ってるだけの睡眠だったはずなんだけど。
「ん、いや…大丈夫なんで、お仕事頑張ってください」
そう言って軽く微笑んだその子を見て、直感的に気づく。
あー、また無理してるなーって。
さゆみ信用されてないのかなーとか少し落ち込みながら、大人としての対応を心がける。
「もう少し時間かかるから先に帰ってていいよ?」
「だいじょぶ、です」
微笑みはどこへやら。
少し意地っ張りな顔。
こうなったこの子はなかなか折れないの、さゆみ知ってる。
さゆみと鞘師は一緒に住んでいる。
鞘師はもともと広島の子だけど早くにご両親を亡くしていて、中学一年生の時に親戚のいる東京へ越してきた。
そして中高一貫の学校でさゆみと出会い、高校生になって付き合い始めて、高校二年生になってからさゆみと同棲を始めた。
つまり、同棲歴二年目だ。
イケないことだとわかってる。
教師と生徒。
本当なら大人のさゆみが我慢しなくてはならない。
だけど、しょうがないじゃん。
我慢出来なかったんだから。
好きの気持ちだけは、止められないものなんだから。
「んー…熱は……結構あるし…帰って寝てな?」
おでこに手を当ててそう告げる。
五年以上の付き合いで一年以上一緒に暮らしてるんだから、この子が本当に大丈夫なのか無理してるのかなんてすぐにわかるわけ。
本当なら一緒に帰りたいけど、鞘師の体のことを考えると先に帰って自分のベッドで寝てほしい。
「…ここで寝て待ってるんで大丈夫です」
さゆみの手から逃れるようにそっぽを向いてそう言う鞘師。
あぁもう、ワガママっ子め。
他の大人の言うことはちゃんと聞くくせに、さゆみにだけはこう口答えをする。
それは心を許されてるようで、嬉しいと言えば嬉しいのだけど。
「自分のベッドの方がよく眠れるでしょ?早く仕事終わらせて美味しいご飯作ってあげるから。ね?」
出来る限り優しい声を出す。
今はこの子のワガママを優先させるべきじゃない。
これで悪化したら、さゆみの保険医としてのプライドが。
っていうより、鞘師の苦しむところなんて見たくないし。
「……嫌、です」
「さーやーし。ワガママだめ……鞘師?」
俯いてる鞘師がさゆみの袖をぎゅっと掴む。
その手は少し震えていて。
「あーもう…なに、どうしたの…」
安心させるようにふんわり包み込む。
出会った頃より確実に大きくなっているはずのその体は、いつもより小さく思えて、どうにも切ない気分になる。
普段は強がっているこの子は、本当はこんなにも弱いのだ。
「ひとり…嫌です…先生といたい…」
普段泣かないこの子に涙声でそう訴えられて、断れる人なんているのか。
いない。
というかいたらぶっ飛ばす。
「…わかった。すぐ終わらせるから、それまで寝て待ってて?」
こくん、と頷いたのを確認して体を離す。
少しボーッとしてるような鞘師のおでこに触れるだけのキスをして撫でてやると、眠そうな顔になった。
そのまま頭を撫でてやりながら横にさせ、ぽんぽんとリズムよく叩いてやるとすぐに眠りに落ちた。
布団をかけてカーテンの外に出る。
「はぁ…」
大きなため息は止められなかった。
今は12月の始まり。
鞘師の卒業まで後3ヶ月。
日に日に大人っぽくなっていく鞘師に、触れたい気持ちがどんどん強くなる。
外見は大人っぽくなっているのに、言動や寝ている姿は無防備だし、お風呂だって結構一緒に入るのだ。
変に思われないように我慢する他ない。
「大人は大変なんだよ…りほりほのばーか…」
家でしか呼ばない呼び方をしたことすら自分で気づかなかった。
それほど余裕がない。
とにかく早く仕事を終わらせて家に帰ろう。
さすがに病人を襲おうなんて気持ちは持たないだろう。
いや、持たないと信じている。
「よしっ」
気を引き締めて机に向かう。
邪念を振り払うように頭を思いきり左右に振った。
end