* 亮春 *

□『あなたが俺を守るように、』
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高校野球の名門、青道に入学する事になった時、一番心配したのは寮生活だった。
兄の亮介がいるとはいえ、厳しい練習と抑圧された中での共同生活。いずれ慣れるとはいえ、果たして自分に耐えられるのだろうか。

でも実際に入ってみると、先輩達は厳しい中にも優しさがあって、同じ目標に向かって頑張る尊敬出来る人達だった。



「だからね、俺、青道に来て良かったって思うんだよ」


にっこり笑う春市に、二つ年上の兄、亮介はうつ伏せの背中を向けたまま興味なさそうに言葉を返す。


「そんなの、お前が恵まれてるだけだろ」

「え!?じゃぁ皆ストレス発散に殴られたり、五分以内にジュース買ってこなかったら素振り一万回とか、食事中は空気椅子とかやってるの!?」

「…………どっからきたの、その発想」


春市の想像する過酷な寮生活に顔をしかめ、亮介は雑誌を閉じると横臥した。
肘をつき手のひらの上に頭を乗せて、ヤレヤレといった風に壁に凭れる弟を見る。


「お前には俺がいるからね。普通の一年だったら、寝ても覚めても緊張し通し。こんな風にのんびりしてらんないってこと」


言われて春市は頷いた。
いくら尊敬していると言っても、先輩は先輩。練習に日常生活にと四六時中顔を付き合わせていてはストレスが溜まる。
しかも寮では全学年一人づつの三人部屋。一人になれる時間なんて殆どない。

三年ならば何かと融通が効いたりするけど、一年生の分際でそれは無理。
だから普通、先輩達が他の部屋に行った隙に息を抜くしかないのだけれど。
青道高校野球部所属小湊春市は、その融通が効く唯一の一年生だった。


勿論春市の為に部屋を空けてくれるのではなく、兄の部屋を訪れると同室の二人が気を利かせてくれるだけ。
つまりそれは、言われた通り身内である亮介のおかげに他ならない。

持参したポッキーをカリ、と噛んで、春市はもう一度頷いた。


「そっか、そうだよね。栄純くんや降谷くんに比べて俺は恵まれてるね」

「まぁ、純とか倉持にパシられてる分、沢村と降谷だってマシなんじゃない?」

アイツらのは許容範囲内でしょ。


「そうだね。降谷くんなんて、なんか嬉しそうだし…。って、許せないぐらいヒドイ事する人もいるの?」


目を瞠る春市に、珍しくも亮介が一瞬たいじろいだ。



「…ん、いるよ。お前なんかまだ華奢だし、俺がいなかったらどうなってたか解んないね」

「解んないって」

「例えばさ――親切めかして近付いて、」


むくり、と起き上がった亮介がにじり寄る。
投げ出した足を膝立ちで跨がれ、何事かと見上げれば照明を背にした亮介が無表情に屈みこんできた。

え?と思うが早いか手首が捻られ、それごと腰を引き寄せられる。


「ちょ、あに…っ」


驚いて上げた声までも素早く重なった唇に呑まれ、長い前髪の下で目を見張った。

キス、された。兄貴から。

それ自体に問題はない、…って、兄弟でそれもどうかと思うけど、自分達は兄弟であってコイビト同士だからキス自体はむしろ嬉しい。
だけどこれは何だろう?兄貴なのに兄貴じゃない。そんな恐怖に春市は身体を強張らせた。


「待っ、…んぅッ」


咄嗟に上げた制止の隙を縫って、なめらかな舌が滑り込んだ。器用なそれが怯える口内を侵食し、途端に呼吸が不自由になる。
苦しさのあまり空いた片手でドンと胸を叩くけど、放しての合図は今日に限って聞き入れられず、逆にその手を壁に押し付けられた。

いつも亮介がくれるキスは、温かくて優しくて、ずっとしてて欲しいって思うようなもの。
たとえ意地悪な舌に翻弄されても、その根底には自分を想ってくれる優しさがある。

だけど―――。これは、何?

逃げられないよう体重を乗せて、暗い影に追い詰めるのは。
無理に咥内を荒らす舌も、性急に肌をまさぐる手のひらも。自分は知らない、兄貴じゃない。



「―――や、だっ!」


己の思考にゾッとして、春市は目の前の胸を強く押した。
それに覆い被さっていた身体があっさり離れる。急に視界が明るく開け、春市は息を乱れさせたままわけが解らず壁に凭れた。

あたった背中がやけに冷たく、冷や汗をかいていた事にはじめて気付く。


「バーカ。何本気で怯えてんの?」

「…だ、って」


笑いを含んだ亮介の声に、からかわれたのだと春市は悟った。
だけど力を抜くことが出来なくて、ドクドクと早鐘を打つ心臓に手をあてる。


「…ごめん。冗談だよ」


その様子に、亮介が困ったように眉根を下げた。


「春市が無防備だったから、ついね」

「…ごめん」

「なんで謝んの。…怯えた顔も見られたし、こっちとしてはむしろご馳走様なんだけど?」


と、くすくす笑う亮介に苦笑で返し、春市は違和感を無理に飲み込んだ。
それでも一度生まれたぎこちなさはそう簡単には拭えない。それを表情から察したのか、微妙な空気をリセットするように亮介がさて、と立ち上がった。


「そろそろ帰んな。いつまでも部屋空けて貰うのも悪いしね」

「…うん」


締め付けられていた手首を引かれ、玄関の横で放される。
見送りとは名ばかりの、まるで追いたてるような態度に仕方なくスニーカーに足をいれながら、春市はぼんやりと押し込めた違和感を反芻した。


さっきの兄貴、…凄く怖かった。
まるで兄貴じゃないみたいな、本気でこちらをどうにかしてやろうと思ってるみたいな、そんな目だった。

無防備だったからつい、なんて言ってたけど、ホントにそれだけ?
からかっただけには思えなかったよ。

って、何考えてんの、俺。
ヘンなコト考えてちゃダメだって。


そう解ってるのに、一度考え出したら止まらない。疑念が湯水のように溢れ出す。



―――そう、たとえば。


『俺のこと華奢だって言ったけど、兄貴だって変わんないじゃん』とか、

『二年前の兄貴には、今の俺にとっての兄貴みたいな人はいなかったよね』とか、

『ならむしろ、兄貴の方が』…とか。


…もしかして、本当は。

『冗談にしたかったコトが他にあるんじゃないの?』――――とか。




「…!」


決して口にしてはならない連想に春市の身体がビクリと跳ねた。

…こんなこと絶対訊けやしないし、兄貴に限ってありえない。
だけどもし…、もしさっき思ったままを口にしていたら、兄貴は答えてくれただろうか。


…ううん、きっと兄貴は笑うだけ。はぐらかされてしまうだけ。
それでわだかまりを残すなら、何も触れず何事もなかったように明日顔を合わせればいい。

だって本当は知りたくない。
知るのが怖い。

否定されてもされなくても、きっと自分は過去の疑念に囚われて、真っ直ぐ兄貴を見られなくなる。



「どうしたの?」


背を向けたまま動かない春市の頭上から、亮介が訝しげに声をかけた。それにかぶりを振って下唇を軽く噛む。
それを怯えているからだと捉えたのか、亮介が全くもうと春市の頭を軽く小突いた。


「お前ビビりすぎ。冗談だって言ってんじゃん」

「…そうだけど」


違うよ、兄貴。俺はずるいだけなんだ。
思考を手放すことも、訊くことも出来ないだけ。こうやって強い人の優しい言葉に甘えているだけ。

苦しさに眉を顰めた春市を心底怯えてのことと見てか、…そう決め付けたいのか。亮介がくすりと口角を上げた。


「お前には俺がついてるだろ?それとも何、兄貴が信じらんないの?」

「そんなんじゃ!……あの、よろしくお願いします」

「素直でよろしい」


ふふんと笑う亮介に、春市もぎこちなく微笑んだ。


確かに二年前の亮介は今の自分と変わらなかった。
華奢で小柄で、まだ中性的な声質で。

だから押さえつけられた時、リアル過ぎて恐ろしかった。容易に過去を想像出来て、冗談だと笑えなかった。
でも、亮介が冗談だと笑うなら、自分にとってはそれが真実。


(……うん)

意を決した春市は、亮介の冷たい手をぎゅ、と握る。
段差によって出来た身長差が何だかとても寂しくて、思い切って細い身体を引き寄せた。

抱いた疑念が事実なのかどうなのか、きっと自分が知る事はないだろうし、たとえ隠し事があったとしても今更何もしてあげられない。
あげられないけど―――。

兄貴が俺を守るように、俺だって兄貴を守りたい。そう思うぐらい、いいでしょう?




「春市?」


日頃なら絶対にしないような大胆な行動に、亮介は驚きながらも華奢な腕に抱えられる。
少し低い所にある赤い耳に唇を寄せれば、背中に回った腕に力が篭った。そして、


「兄貴にも…、俺がついてるから、ね?」


告げられた声は小さなもので、だけど強い想いに一瞬だけど息を飲む。
その隙に照れ隠しとしか思えない声が「おやすみ!」と叫び、続いてドアがばたんと閉じた。


部屋に一人残されて、亮介はさっきまでそこにいた真っ赤な顔を思い出す。

それは野球だって高校だって、何でも自分の後を追うだけだった弟の顔。
だけどいつの間にか、自分の意思で歩いていた弟の姿。

余計な事をしちゃったなと少し後悔したけれど、うん、あれなら大丈夫。
…そりゃあ正直、寂しくないと言ったら嘘になるけど。




「…あーあ」


くす、と自然な笑みに頬が緩む。

楽しげなそれを浮かべたまま、じゃあ折角だし守ってもらいますかねなどと素直じゃない事を考えながら、亮介は後輩達を呼び戻すべく、携帯を開いた。







-オワリ-







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