* 亮春 *

□『それでは誘惑の準備を』
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『東京の高校に行く事になった』


中学一年のある晴れた日。
兄の亮介に連れ出された公園で、春市は初めてその事実を知った。

理由は一つ。より厳しい環境で自分を試したいから。
その為に親元を離れ、自分を置いて、兄貴は野球留学をするのだと言う。


『何で!?』


勿論春市は食い下がった。
決めてしまった以上どうにもならないって知ってたけど、それでも聞かずにはいられない。

兄貴は、自分にとって絶対の存在。
小さな頃からその背中だけを追いかけて、時々振り返ってくれる兄貴が大好きだった。
だけど返された答えはそのひと言。自分を試したい。ただそれだけ。

春市は、遠くなる兄の背中をただ見つめる事しか出来なかった。
だってもう、追いかけてくるなと言われたから。


『お前はマネするなよ』


そんなの、拒絶でしかないじゃないか。







だけど中学三年の時。どうしてもと無理を言って、結局兄のいる高校に進学を決めた。

何で、と訊かれたら正直言って自分でもよく解らない。
昔からの習性で、兄貴の後を追いかけたかっただけかもしれない。
そんな半端な気持ち、あの時から覚悟を持って青道に来た兄貴には、看破されて当然だと思う。
だからここはそんなに甘くない、なんて釘をさされてしまったんだ。

壁に凭れた春市は、手の中の硬球をコロコロと弄ぶ。
一人きりの部屋の中、付けっぱなしのテレビから空しいぐらい明るい声が流れ始めた。


「………」


気分じゃないな、とテーブルの上のリモコンに手を伸ばす。その時ドアを叩く小さな音が耳に触れた。


「あ、ハイ!」


慌てて立ち上がると、ガチャ、とドアが開かれて、意外な人物が入ってきた。
春市の目下の悩みの種であり、最も嫌われたくないと思っているその人――兄の亮介。
自然背中がピンと伸びて、緊張のあまり顔が赤らむ。でも亮介は部屋の中を見回して、最後に仕方ないとばかりに春市と視線を合わせた。


「一人?」

「う、うん!先輩達はゲームするって出てったよ」

「ふぅん…。じゃあいいや」

「あっ…」


あっさりと背中を向けた相手に、春市は慌てて声を掛けた。…いや、掛けてしまっていた。
そんな自分に驚いて、「何?」と振り返った兄に春市はもごもごと口ごもる。
ドアは既に開かれていて、外の暗闇に浮かび上がる亮介はとても遠く、春市はどう言葉を続けるべきか困ってしまった。


「言いたい事あるなら、言えば?」

「う、うん」


追い討ちを掛ける冷たい声に、たまらず春市は視線を落とす。それに亮介は溜息をついた。
言いたい事は解る気がするけど、ここで折れてやるつもりはない。開け放したドアを後ろ手に閉めて、俯く弟の長めの髪を無言で見る。
一方、ばたん、とドアの閉まる音を聞き、春市はぎゅう、と手のひらを握った。

訊きたい事は山ほどある。
追い掛けてきた自分を欝陶しいと思っているのか、とか、滅多に目を合わせてくれなくなったのは、半端な気持ちでいた自分に怒っているからなのか、とか。
先輩後輩とは言え、同じ両親から産まれた血を分けた兄弟。遠慮する必要なんてないはずなのに。

そう思いつつも、肯定されたらどうしよう?と思うと結局いつも言いよどんでしまうのだ。
だけど今、ここにいるのは二人だけ。それにドアを閉めた以上、亮介は何らかの回答を得るまできっとテコでも動かない。

だからこれはチャンスなんだ――、とヤケクソ気味に覚悟を決めて、春市は顔を上げた。


「兄貴は…、俺が青道に来ない方が、…良かった?」


やっぱりな。予想通りの言葉に緩く笑い、亮介はスニーカーを脱いで部屋に上がる。
そう来るとは思わなかったのか、緊張で頬を染めた弟の前に立つと、小さな身体が可哀相なぐらいびくりと震えた。


「そんなんじゃないよ。ただいい加減、兄離れしろってこと」

「兄離れ…」

「そ。もう子供じゃないんだから」


そう言いながら、亮介は春市の髪をくしゃりと撫でた。

つき放す言葉と、優しい手のひら。
幼い頃から変わらぬぬくもりに、春市はどうしていいか解らなくなる。
だから兄の気持ちを知るためにじっとその目を見上げてみたが、相変わらずの笑みが浮かんでいるだけだった。


「…うん」


これ以上嫌われたくない。
それだけで頷いた春市に、亮介は仕方ないねと苦笑する。


「ほんとお前は、いつまでたっても子供だね」

「そんなこと…」

「あるよ。家でもそんな風に甘えてたの?」

「え…?」

「泣きそうな顔、してんじゃん」


亮介の馬鹿にしたような声音に、春市はカッと赤くなった。


「そんなことないよ!俺は…っ」


続けかけた言葉をぐ、と呑み込んで、唇をきつく噛み締める。
そんな誰にでも甘えてるみたいに、庇護を欲しがる子供みたいに言われた事が悲しかった。
特別なのは一人だけ。恐れているのも一人だけ。振り向いて欲しいのも一人だけ。
行動一つ、言葉一つに反応するのは、昔から兄の亮介だけなのに。

その心を見透かしたように、亮介が口角を上げた。


「そ?じゃあ、俺にだけ?」

「…そう、だよ」


思っていた事を口にされ、その通りなのにとてつもなく恥ずかしい。
自分がいかに子供で、いかに兄貴に依存しているのか突きつけられた事に気が付いて、顔を上げていられなくなった。

“ガキ”

そう思っているはずなのに、亮介はそれ以上嘲りも笑いもしない。
また甘いと思われているのか、それとも話したくないぐらい呆れられてしまったのか。
泣きたくなってきた春市を見つめ、ようやく亮介がくすりと笑った。


「それって結局、兄離れしてないってことだよね。…それとも俺は、春市にとって特別なのかな?」


からかう口調に春市はごくりと唾を飲む。そしてどうにかこうにか頷いた。


「兄貴は…、特別、だよ」

「へぇ、どんな風に?」

「どんな、って…」


精一杯張り合っているつもりなのに、容赦のない亮介に言葉が詰まった。
ちらりと表情を盗み見れば、いつもの心を見せない笑顔が春市を見下ろしている。

自分にとって兄貴は特別。

そんな事は当然で、だからこそ説明しろと言われると困ってしまう。
それぐらい絶対的な存在なのに、多分どう理由を付けても『兄離れしていない』のひと言で片付けられてしまうだろう。
傍から見たらその通りなのかもしれないけど、それを認めてしまうのは、とても悲しく、もどかしかった。


「…っ」


上手い言葉が見つからず、項垂れる春市の姿に亮介は口許の笑みを深くする。
そして助け舟を出すように、そっと優しく声を掛けた。


「ねぇ?春市。…例えばさ」

「……」

「兄貴としてじゃない特別って、色々あると思うけど」


色素の薄い髪をぴくりと揺らし、春市が僅かに反応した。
それに気付かぬ振りをして、亮介はゆっくり手を伸ばす。


「こんなのも…、そうだよね?」


子供の頃よりしっかりした、だけど優しくて懐かしい手がするりと春市の指に絡む。


「え…!?」


驚いて顔を上げるとすぐ目の前に亮介がいて、長い前髪を掻き上げられた。
日頃隠している瞳と意外なほど真摯な視線が交差する。でもそれは一瞬で、すぐに目の前が暗くなった。
合わせた瞳に向かって亮介が身体を寄せて来て―――、反射的に目を瞑ったから。


「あ、兄貴!?」


触れるだけの瞼のキスに、春市はこれ以上ないほど赤くなる。
上擦った声を上げて片目を押さえる弟の唇を指で制し、亮介は庇うように背を向けた。

直後、騒がしい声と共にドアが開く。


「帰ったぞ〜。倉持の奴ゲーム強すぎ…ってあれ、珍しいな亮介。来てたんだ」

「うん。おかえりー」


おー。と言ってスニーカーを脱ごうとする桑田をその場に留めるように、亮介が口を開いた。


「桑田、倉持にゲームで負けたの?」

「ん?ああ、ボロ負け。アイツ半端ねぇよ」

「あーあ。じゃあ桑田、明日っから倉持のパシリ犬だね。ご愁傷様」

「…は?」

「知らないの?倉持に負けた奴はしばらくパシリだよ。沢村と一緒」

「マジか!?冗談じゃねぇ!」


頭を抱えて叫ぶなり、桑田は急げとばかりに踵を返す。


「ゾノ、戻るぞ!リベンジだ!」

「へ!?また行くんスかー!?」


桑田の背後にいた前園から、悲鳴のような声が上がる。しかし先輩には逆らえず、結局連れて行かれたらしい。
バタバタ走る音と声はあっと言う間に遠くなって、再び辺りが静かになった。


(え…。ちょ、アレ?)


頭が真っ白になっている間に何やら事態が変化してて、気が付けばまた兄と二人きり。


(な、何で)


兄貴が桑田達を追い払った。それは春市にも解るけど、亮介は同級である桑田に用があったはず。
なのにその相手を追い返し、状況はまた元に戻る。

真っ白になったまま、春市は目の前の背中を見つめ、次いで後ろ手に回された両手と、その中におさまる自分の右手に目をやった。
桑田達が戻った時に放される、と思った手は未だ亮介に包まれていて、春市は改めて目眩を起こす。


(どうしよう…!)


動揺が、指先から伝わってしまうんじゃないかと思うぐらいドキドキしてる。
気のせいじゃない事を確かめるように、もう一度口付けられた瞼に指を当てた。

妙に熱いそこは、確かに亮介の唇が触れた感触を覚えていて、春市はぼんっと噴火する。
口にされたわけじゃなし、そんなに焦ることはないのかもしれないけど、高校生にもなって普通兄弟にキスなんかしない。
それぐらい春市にだって解ってる。解ってるからこそ困るのだ。


(じゃぁ…、どういうこと?確かに特別だって言ったけど、特別ってこういうこと?…いやそれよりこの後どうしたらいいの!?)


激しいパニックに陥いった春市は、無意識に亮介の手に縋ってしまう。
その時、前を向く兄の口許がくすりと弧を描いた事など、春市には知る由もなく。
だから突然肩越しに振り返られて、春市は心臓が飛び出るほど驚いた。


「わぁっ」

「どうしたの?」

「う、ううん。何でもない…」

「ふぅん?」


怪訝そうな兄にどうにか答え、ドキドキしながら心の中で深呼吸。
ところがそんな春市に、亮介はにっこりと微笑んだ。


「さて、あっちも面白そうだし、俺も行ってみようかな」

「…え?」

「じゃ、またね」


有無を言わさぬ微笑に、春市の手から力が抜ける。
その隙に手を放した亮介は、とんとん、とスニーカーを履いて振り向くことなくドアの向こうに消えてしまった。



ポツン、と一人残されて、春市は呆然と立ちつくす。

兄離れしろと言われ、特別ってこんなの?と手を握られ、瞼にだけどキスをされ…。だけどあっさり行ってしまった。
それなのに、この後どうなるのか。なんておかしな事を考えてぐるぐるしていた自分は一体……。


「な、なんだったの…」


力尽きた呟きと共にベッドに転がり、枕に顔を埋めて頭を抱える。
色んな事がありすぎて、もう頭はパンク寸前。
今考えだすとただのリフレインにしかならず、それは破壊力がありすぎて思い返すのにもパワーがいる。




「………ああ、もぅっ」


結局、タオルケットを頭から被り、電気もテレビも付けっぱなしで、春市はひたすら羊の数を数えたのだった。







-オワリ-






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