* 亮春 *
□『pure blue sky』
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パジャマから練習用ユニホームに着替えていたら、階下から微かな泣き声が聞こえてきた。
日曜日のこの時間、しかも晴れた日とくればその理由は明らかで、亮介はまたかと溜息を零す。
一瞬止まった指を動かし身支度を再開すると、ポールに掛けた帽子を取って部屋を出た。
階段を下りている途中も響いていた泣き声は、リビングに入ると音量を増して一層うるさい。
キッチンに立つ母親のエプロンにぶら下がる騒音の主を一瞥して、亮介は重いバッグをどさっと下ろした。
それにちび怪獣がぐるんと振り向き侵攻先変更とばかりに駆け寄ってくる。
「にいちゃぁん!ぼくも連れてって!」
「だめだよ。お前はまだ無理だって何度も言ってるだろ」
「やだやだやだぁ!」
聞き分けのない弟に徐々に亮介も苛立ってくる。
小柄な体、舌っ足らずな口調。これで小学校一年なんて嘘みたい。
「俺が駄目って言ってんじゃなくて、うちのチームは三年からって決まってんの!」
涙と鼻水を垂らしながらしがみつく小さな頭を押しやって、バーカと捨て台詞ひとつ投げつけて洗面所に逃げ込んだ。
引き戸の向こうで母親の咎める声と火がついたような泣き声がするけど、知ったこっちゃない。苛々と歯ブラシを口にくわえた。
ほんと春ちゃんはお兄ちゃん子ねぇ。と近所の人にも言われるように、弟の春市は何をするにも自分の後をついて来る。
生意気盛りの亮介にとっては、可愛くもあるがそれ以上に鬱陶しい。
何しろ春市は、亮介に出来ることは自分にも出来る。亮介がすることは自分もしたい。の連続で、離れようとすると泣きわめくという最終手段を使うのだ。
最近では入りたてのリトルに一緒に行くと言い張って、練習のある日曜のたびにこうやって泣きつかれるから堪らない。
隣ん家のコウちゃんとこも達也んとこも、同じぐらいの兄弟がいるけどこんな甘えん坊じゃなかった気がする。
何でアイツはこうなんだろ。とむかむかしながら口を漱いだ。
顔を洗い大人しくなった頃を見計らいリビングに戻ると、泣き疲れた春市が床にペタンと座っている。
(…あー、もう!)
結局亮介は春市に甘い。しょぼくれた姿を見ていられなくて、鼻をすする弟の頭を撫でくり回すと亮介はその前にしゃがみこんだ。
「しょうがないなぁ。俺のバット貸してやるから、ばあちゃん家で大人しくしてろ」
「…いいの?」
だってにいちゃん、一度も貸してくんなかったじゃん。
「いいよ。でもお前じゃ持ち上がらないかもな」
「そんなことないよぉ!」
「そうか?カンカンって音がする軽い方じゃないぞ?木の、重ーいやつ」
「ぼく持てる!」
俄然元気になって春市は笑う。ったく現金なんだから、とつられて亮介も笑ってしまった。
祖母の家にある木製バットは、子供用とはいえプラスチックとは比べものにならない重さがある。それは自分でも五回も振れば手が痛くなるような代物で、亮介は一度も春市に貸してやった事がない。
重さのせいもあるけれど、あれは昔野球をやっていた父親が最初に使っていたものらしく、何となく安易に触らせたくなかったのだ。
多分それは、無邪気に自分の領域を侵す弟に対しての、ちょっとした抵抗。
それが原因で何度も泣かせたのが嘘のように、春市の喜ぶ顔につまらない意地が消えていった。
亮介は涙の線がくっきり残る、春市の顔を覗き込む。
「あれが振れるようになったら連れてってやるよ」
「ホント!?」
「うん。そしたら一緒に野球やろっか」
「うん!」
ぱっと笑顔になった春市の頭をポンポンとあやし…。うん、それからだっけ。兄弟の遊びが野球ばかりになったのは。
握っていたバットを元に戻し、亮介はふふ、と小さく笑う。
試合を前に伊佐敷が貼り出した“甲子園”の文字を胸に焼付けに来た亮介は、立てかけられていた木製バットに幼い自分達を思い出していた。
あれから自分は金属も使うようになったけど、相変わらず春市は木製バットを振り続けている。
よもやあの頃の約束だけでそうしているわけはあるまいが、あれも理由の一つかもしれない。そう思うと準決勝前だと言うのに不思議と心が暖かくなった。
「兄貴」
振り返ると思い出の中より遥かに成長した、でも変わらず自分の後をついて来る弟が立っていた。
皆と一緒にグラウンドにいない事に気がついて、探しに来たのだろうか。亮介は意外と達筆な文字に目を向ける。
それから一言二言、言葉を交わし、春市は“甲子園”を見つめる横顔に最後の夏を感じたのか、詰めた息を吐き出した。
「兄弟二人で甲子園に行く最初で最後のチャンス…。俺は絶対に甲子園に行きたい」
「……」
あまり感情を露にしない春市にしては珍しい。亮介は笑みを浮かべて視線を返した。
三年間血反吐吐くほど努力しても、甲子園という夢の舞台に立てるのは一握り。
なのにここまで来ても“兄弟一緒に”なんて、ほんとコイツは小さな頃から変わっちゃいない。
今日は準決勝。亮介が青道に入ってから超えたことのない大きな壁が待っている。
だから三年間の全てを出しきろうと気合を入れに来たはずなのに、たった一言にこんな心穏やかになるなんて。
「バーカ…」
弟にか、自分にか、はたまた双方にか。亮介はそう呟いて踵を返す。
結局変わってないのは自分も同じ。お互いに抱く気持ちはあの頃のまま。
二人で野球をやっていたい。きっとそれに尽きるのだろう。
だけど素直に“俺も”なんて言えないから、
「俺が心配なのは、お前がベンチ入りの18人に入れるかどーかって事…」
「…え!?」
甲子園のベンチ入りメンバーは18人だから、なんて言葉の隅に滲ませる。
慌てる春市にくすくす笑い、亮介は大きくひとつ伸びをした。
そのまま顔を上げれば雲ひとつない高い空。
今日も暑くなりそうだ。
「さて、そろそろ戻るか。もたもたしてると置いてくよ」
「ま、待ってよ兄貴っ」
急いで追いかけてくる弟を待たずに歩き出す。
この先にあるのは甲子園か、引退か。
それは野球の神様にだって解りゃしない。
だから俺達は、いつものようにグラウンドに駆け出すだけだ。
「今日もしっかり準備しとけよ」
「うんっ」
そう、あの頃のように。
力まず、気負わず。
一緒に野球を楽しむために。
-オワリ-
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