* 亮春 *

□『From tomorrow』
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風呂上りの湿った頭にタオルを被り、階段を昇りきった所でリズミカルな呼吸が僅かに乱れた。

廊下を照らす電灯の下、目に入ったドアの向こうに意識が奪われたからだと気が付いて、春市は補うように少し多めに息を吸う。
それと同時に止まっていた足を動かし、軽やかに近づきドアを叩いた。


「兄貴。いい?」

「いいよ」


努めて明るく声を掛けると、中から変わらぬ響きが返ってきた。
入るねー。と言いながらノブを捻った春市は、一歩足を踏み入れたまま立ち止まる。


「…明日の用意?出直した方がいい?」

「いや、忘れ物ないか見てただけ」

「そっか」


ほっとして、気が変わらないうちにと滑りこむ。口では出直そうかなんて言ったけど、本当のところ今日だけは譲りたくなかったから。
それに気付いての事なのか、亮介が開いたバッグの中身を確かめながら返事をした。


「何?」

「…ううん、」


よそよそしいまでに片付けられた室内を見回して、ベッドの上に寝転がる。
白い模様の天井だけは、眠れなくて潜り込んだ子供の頃と変わらなくて、何だか勇気付けられた。


「母さんがお風呂入っちゃってだって」

「解った。てか起きろ。枕が濡れんだろ」

「…兄貴ってカメレオンみたい」

「見なくても解るっつの」


起き上がって口を尖らせれば、笑いながら亮介がジッパーをしめて立ち上がった。
言われた通り風呂の用意をするのかと思えば、ベッド脇のリモコンを取り上げテレビに向ける。

一瞬の後、静かだった部屋の中に、二人のものではない笑い声がこだました。


「あ、コレ今日だったんだ」

「うん。すぐ終わると思ったけど続いてるねー」

「よく春の番組編成に残ったな」

「結構人気あるのかな?」


ベッドに座った亮介の隣に這って行って、同じように腰を下ろす。
次々変わる液晶画面を追っていると、やがて音楽番組で亮介がリモコンを手放した。


「うわ、ひどいな。音はずしまくってんじゃん」

「可愛いけどこれはちょっとね…」

「何、お前こういうのが好み?」

「そういうわけじゃなくってっ。あ、じゃあ兄貴はどんな人がいいわけ?」

「うーん…。そうだな、外見的には可愛い系でー」

「兄貴より小柄で?」

「うるさいよ」

「あはは」


ほっぺたを軽く抓られて、春市は笑いながらその手を掴み無意識のうちに息を呑んだ。
それはさっき、二階に上がって来た時の動揺と酷似していて、落ち着かなきゃと唇を噛む。

こんなのは、兄弟の間では何気ない行動。特別珍しい事じゃない。
今までだって頬や鼻をつままれた時は、やめてよなんて言いながら、その手に触れてきたんだし。

だけど何故か、今日は亮介の指の感触や掴んだ手首に喉が詰まりそうに苦しくなる。
これではまるで、こみ上げる涙を我慢しているみたいじゃないか。


「高校行ったら、すぐ出来そうだね」


不自然な姿を指摘される前に、目を擦りながら手を放す。
だから春市は、亮介の目から笑いが消えた事に気が付かなかった。


「…彼女?」

「うん。すっごく可愛い人」

「そんな暇ないよ」


つまらなそうに会話を切って、亮介はニュース番組にチャンネルを変えた。
取り繕うつもりの言葉が逆に違和感になったらしい。無言で画面を見つめる亮介を横目で伺い、春市は失敗した自分に内心重い溜息をついた。

日頃から片付いている亮介の部屋によそよそしさを感じたのは、気に入りの本や写真など、兄貴にとって大切だと思うものが殆ど姿を消しているからだ。
それらは仕舞われたわけでも捨てられたわけでもなく、一足先に遠いところへ旅立っている。

しかも春市の手が届かないそこに、荷物だけじゃない。明日亮介も行ってしまうのだ。
そうしたらここには、もう暫らく戻らない。二人で過ごした隣の部屋は、きっと別のものになる。


「テレビ、さ」

「…え?」


不意に亮介が口を開いた。


「テレビ?」

「うん。明日、お前の部屋に運んでやるよ」

「…なんで」

「欲しがってたじゃん」


そんなの兄貴の部屋に来る口実だよ、なんて言えるはずもなく、ぎこちない笑顔で小さく頷く。


「ありがと」

「いいよ、どうせ見ないし」

「…うん」

「その代わり、帰ってきたときは俺優先な」

「ずるい」

「どこが」

「所有者の権利は?」

「だったら俺じゃん」

「その時使ってる人のものですー」

「何それ」


だって滅多に帰ってこないんでしょ、なんて恨み言が飛び出しかけて舌を出す。

呆れたように肩を竦め、亮介は次いで真顔になった。
その顔で僅かな希望を無残に断つ。


「本当には帰って来ないよ、俺は」

「…知ってる」

「だからテレビもやるし、ここにあるものは好きにしていい」

「……」

「高校の先はまだ解らないけど、その時も多分帰って来ないから」


見上げた先の視線は画面から動かない。でもその目が追っているのはテレビに映る景色ではなくて、春市の知らないどこか遠いところだった。

東京の学校に行く、と聞かされた時から亮介の気持ちは解っていたし、きっとこうやって並んでテレビを見て文句言って笑えるのも、今日が最後なんだって言われなくても理解してる。
だからこそ泣いたりしない、笑って見送ろうって決めてたのに。

なのに兄貴のせいで台無しになった。


「バーカ」

「…誰が」

「春市」

「バカの兄貴はバカじゃないの?」

「さぁ、どうだろね」


温かい腕が俯いてしまった頭を抱く。
髪の間に入った指に優しく頭を撫でられて、ずるい、と口の中で呟いた。

二歳という年の差は、どう頑張ったって埋められない。明日一緒に行くことも、別の学校でライバルになることも出来やしない。
出来るのは、いつの間にか遠くに行く事を決めた人の覚悟を、ここから見送ることだけだ。


「泣き虫」

「…兄貴のせいだ」

「俺かよ」

「だって」

「だったらお前も努力すれば?」


抱き寄せられていた手が放れ、濡れた目のまま反射的に顔を上げる。
視線が合わさる寸前に、それを阻止するように乱暴に頭を撫でられた。


「……」


乱れた髪が邪魔になって、亮介の表情はわからない。手櫛で整えた時には目線は画面に戻っていて、突き放されたのか、優しくされたのかも解らなかった。


「二年なんてあっという間。すぐに今の俺と同じ歳になるんだから」

「…青道に行っていいの?」


意味が違うと解っていても、離れた腕が寂しくて縋るような言葉が出る。
だから亮介から零れたしょうがないねと言わんばかりの溜息に、春市は咄嗟に身を竦めた。

だって、兄貴のことだ。こんな風に頼ったら、バカ、ガキ、いい加減にしなのニ、三言ぐらい浴びせられるに決まってる。
そう覚悟を決めてぎゅ、と手のひらを握りしめた春市の耳に、予想以上に冷たい言葉が飛び込んできた。


「いいも悪いも、俺が決める事じゃないし」

「…!」

「でもま、今のお前じゃ絶対無理。そんな甘いもんじゃないよ」

「そんなの…解ってるよ」

「解ってない」

「解ってるってば!」

「じゃあ何でそんな裏切られたみたいな顔してんの?」


声を荒げた春市を、亮介が鼻で笑った。


「いつも通りにしようとしてたみたいだけど、お前の中にそういう気持ちがある以上、そう簡単には隠せないよ」


そんなことない。そう言いきるには核心を捕らえられすぎていた。
黙り込む春市に、笑いを消した亮介が静かに続ける。


「でもね、俺は自分のしたいようにする。その為に努力もする。お前の手が届くところに居るつもりはないし、これからもないよ」

「………」

「お前はそこにいればいい。そうやって立ち止まってる分、俺は先に行くからさ」


俯く春市を一瞥して、亮介は口を閉ざした。

『裏切られたと思ってる』

そうハッキリ指摘されたら黙るしかない。


そうだ、兄貴の言うとおり。自分の中には確かにそんな気持ちが巣食っている。
だって兄貴が遠い所に行くなんて、半年前までは全く考えてなかった。ずっと一緒にいられるって、いつでも俺の目の前にいてくれるって疑いもしなかったから。

だけど兄貴は自分の選んだ道を行くと言う。そこには俺の入る隙間はなくて、だからそんなの、裏切られたとしか思えないじゃないか。

突きつけられた自分の心に、また涙が溢れて来る。
でもここで泣いたらまたバカにされる。だから絶対泣いたらダメだ。


「春市」


一層キツく唇を噛む春市に、亮介がそっと声を掛けた。


「お前はどうしたいの?」


「………解んない」


兄貴と一緒にいたい。その言葉は不思議と喉から出なかった。
自分を置いていく兄貴への精一杯の強がりだったのかもしれない。


「じゃあどうしたいか考えな」

「…うん」

「決まったら、それに向かっていけばいい。自分のしたいように出来るかどうかは、結局お前次第だからさ」


そう言って亮介は前髪を掻き上げた。

こういう時のこの仕種は、照れくさい時。余計な事言わせんな、って思ってるとき。
それに気付いた春市はもう一度うん、と声に出した。

そうだ、兄貴は。付いて来いとか来るなとか、解りやすい言葉をくれたことなど一度もない。
きっとそれはこれからも同じ。だけどいつだって、言葉で、態度で、示してくれる。


「――二年」


ぽつんと呟けば亮介が頷く。


「うん。あっという間だろ」

「…そうかな」

「本気で全中狙ってればすぐだよ」

「そっか、大きなチャンスは二回だね」

「のんびりしてる暇はないでしょ」


その時望む道を選びたければ、努力するしかない。
立ち止まって泣いている暇はない。

言外の言葉に春市は肩の力をゆっくりと抜いた。


「…うん」


握っていた手を広げると、白くなっていたそこが瞬く間に色を付ける。
じんとする手のひらを今度は緩く握りこんで、春市も顔を上げた。

液晶画面に映っていたのは、大きくつぼみを膨らませた桜の枝。
満開まではまだ遠く、でもその日の為に準備を怠らない賢明な姿。

それに思わず自分達を重ねてしまい、気恥ずかしくてなってわざと大きな声を出した。



「ほんと兄貴は簡単に言うよねー」


声の変化を敏感に察し、亮介が口角を上げる。


「じゃあ適当にやっとけば?俺は頑張るけど」

「…俺も頑張るもん」

「そ」

「青道から声が掛かるように!」


冗談ぽく笑えばいつも通り亮介が嫌そうに言葉を返す。


「ちょっと、本気で追いかけて来るつもり?」

「いいでしょ?」

「ダメ」

「いいもん、好きにするから」


唇を尖らせると亮介が笑った。


「ま、来れるもんなら来てみろよ。でも俺がいる限りお前はずっとベンチだけどね?」

「兄貴だってまだ入ってもいないくせに…」

「うるさいよ。じゃ、そろそろ風呂入るから」

「うん」


話しは終わりと打ち切られて、仕方なくベッドから下りてドアに向かう。
そのまま部屋を出ようとして、春市は伺うように振り返った。


「何?」

「あ、ううん、何でも」


てっきりテレビかどこか、別の方向を向いていると思った亮介と目があって慌てて両手を横に振る。


「そ?じゃ、おやすみ」

「うん。―――えと、兄貴」

「ん?」

「…………ゴメン、なんでもない」


言いかけて…唇を噛んで。

明らかに躊躇った春市に亮介は何も言わなかった。
何も言わずにただ、頷いた。




後ろ手に扉を閉めて、春市は顔を上げる。
天井の明かりが目に沁みて、もう一度緩く唇を噛んだ。


『頑張って』


その一言が言えなかったのは、言わなかったのは。
寂しさのせいなのか、それとも同じ夢を叶えたいと思ったからか。

春市自身にも解らなかった。







-オワリ-







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