PandoraHearts

□ただいま
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「ケビン、こんなのわからないよー」
 その夢は、必ずここから始まるのだ。まだ幼くかわいらしい顔立ちの少女が、肩までの巻き毛を揺らしてそう唇を尖らすところから。小さな手に握られている鉛筆がとんとんとん、と算数の問題の空欄に小さな点を描いていく。そしてわたしは必ず、ああと苦笑しながらそれを制すのだ。
「さっきの問題では、できていたじゃあないですか。なにがわからないんです」
 だって、と鉛筆がぐるぐると紙に円を描き始める。その口から、せっかくケビンが来たのになんで遊べないの、などという不平が漏れた。それはわたしがベビーシッターじゃあなくて家庭教師だからです、といじわるく返してやると、少女は頬を膨らませて机に突っ伏す。
「わたし、赤ちゃんなんかじゃあないもん」
 完全にむくれてしまった少女に、思わずため息をつく。なつかれているのはうれしいが、ここまで勉強に集中してくれないと、さすがにこの家を出ていかないといけないことになる。ああ、ここの主人が厳しいというわけではない。どちらかといえば心やさしいおおらかな人物で、その奥方も同様だ。ただ、住まわせてもらっている以上は、頼まれた最低限のことくらいはしなければと思う。そうだ、とわたしはわざとらしくなにかを思いついたかように呟いた。
「その問題と、その次のが解けたら、遊んであげてもいいですよ」
「…ほんとうに?」
 ええ、ほんとうに。言ったとたん、少女はぱっと起き上がって消しゴムを掴んだ。消されていく点と円に、ほっと息をつく。ひとなつこいのはいいが、ここまで単純なのもどうなのだろうか。いや、こどもらしいという点ではいいのだろうが、と必死に問題を解いている小さな背中をほほえましく見守っていると、部屋の外からなにかが聞こえたような気がした。
「…ケビン?」
 少女にも聞こえたのだろう、ころころ、と鉛筆の転がる音が響く。聞こえたのは、声だった。ああ、ただの声などではない。かん高いその声は、まるで悲鳴のような、そんな恐怖に満ちたものだったのだ。少女の手が、わたしの腕を掴む。
「テレビ、だよ。またパパが、音量を上げすぎちゃっただけに、きまってるよ…」
「そう、ですね」
 そう答えつつ、少女の憶測は間違っているとしきりに本能が訴えていた。背中を冷たい汗が伝う。少女もそれがわかっているのか、ぎゅうっと腕の手に力がこもった。
(この子だけでも)
 逃がさなければ。そう不意に浮かんだ使命感に、わたしは困惑した。これではまるで、自分たちが危機に立たされているようではないか。今の悲鳴が、なにものかに襲われたから上がったという確証はどこにもないのだ。豪邸だけあって、防犯もきちんとしていると以前に聞いたことがある。もしかしたらほんとうに、少女の言う通りかもしれないだろう。そう自分を落ちつかせようと打ち立てた仮定は、しかし、もろくも叩き壊された。
 叫び声が、耳をつんざいたのだ。それは先ほどよりもはっきりと、しかもより近くで発せられたようだった。だが、そのなによりもわたしたちを決定的に打ちのめしたのは、その声が、主人のものであったという現実だった。
「…ケビン」
 ケビン、ケビン。言葉を失っていた少女が震えだす。握られた腕にはもう感覚がなかった。どうしよう、ケビン、どうしよう。少女がわたしの心中を代弁するがごとく、わたしにすがりついて泣き始める。震えるそのちいさな身体を抱きしめながら、今この子を守れるのは自分しかいないのだと思いあたった。わたしが、この子を守らなければならないのだ。机上のペン立てにあったカッターを掴む。窓のないこの部屋の、扉の向こうで物音がした。
(守ら、なければ)
 ぎい、ゆっくりと開く扉に向かって、わたしは少女を振りほどいて駆け出した。わたしの名を叫ぶ少女を、生きている彼女を見たのは、それで最後となった。



 気がつくと、白が視界を支配していた。ふわり、右側から風と共に白い布がそこに入ってくる。そちらに首を回せば、揺れる暗幕の隙間から、おだやかな陽光が入り込んでいるのが見えた。反対側に目を向ける。点滴の管が、わたしの左腕から伸びていた。
(そうだ、あの子は)
 どうなったのだろう。あわてて身体を起こそうとして、腹に激痛が走った。息が詰まり、ゆっくりと寝台に倒れ込む。そうして額に手を乗せたわたしは、包帯の感触をつたってたどり着いた左目に、指先を凍らせた。
 気づいてはじめて頭の底に響く、鋭いようで鈍い痛み。包帯の上からそっとなぞった瞼には、なにかに切りつけられたかのような鋭いへこみがあった。眉の下から頬骨のあたりまで続いているそれは、間違いなく眼球をも傷つけているに違いなかった。しばし呆然と何度も指を往復させていたわたしは、それでも、と唇を引き締める。
(あの子が、生きているのなら)
 守り通せたのなら、それでもよかった。ぎい、と病室の扉が開く。どうやらここは個室であったようで、入ってきた恰幅の良い金髪の医師は、左目に触れているわたしを覗き込んでにこやかに笑った。
「おお、気がついたようだな」
「あの子は、どうなりましたか」
 突然ぶつけた問いに、医師は虚をつかれたように笑顔を強ばらせた。ひやり、心臓を冷たいものが撫でる。まさか、まさか。聞きたくない、信じたくない。けれど、聞かなくてはならない。受け入れなくては、ならない。微笑みを取り繕ってあの子は大丈夫だ、と口を開く医師の胸ぐらを掴み、無理矢理引き寄せた。
「ほんとうのことを言ってくれ」
 情けなど必要ない。同情など必要ない。だから、頼む。医師の顔が苦渋に歪んだ。四角い眼鏡の奥の碧眼が、かなしみに揺れていた。
「…あの子は、ここに運ばれた頃には」
 もう、すでに。しん、と頭の中が真っ白になる。その直後、感情の奔流に押し流されていた痛みが一挙に、起こした身体に押し寄せた。ずきん、左目が痛む。服を直した医師は複雑そうに目を伏せ、たっぷりとたくわえられた金色の髭を一度片手で撫でてから、後で警察に話を聞いてくれ、と言い残して病室を去っていった。
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